特集 2001.12/vol.4-No.9

21世紀最初の一年を振り返る
 21世紀の最初の1年、世界は大きく変わった。産業社会からIT社会へと、世の中は大きく舵を切った。それらの現実をどのように読み解いていくべきか。情報社会と広告の双方について考えていく。

IT革命の本質とテロ以後の社会
 ITが21世紀の扉を開けると言われていたが、9月11日の米国同時テロ以降、再び経済は活力を失った。IT革命の本質とは何か。現在起きていることをどのような文脈で読み解いていけばいいのか。東京大学大学院情報学環教授の西垣通氏に聞いた。
 
西垣通氏
 米国で起こった同時テロと今の日本が置かれている政治・経済状況は、さまざまな面で関連している。

矮小化されたIT革命

 日本のIT革命は、やや失速していると言われているが、私に言わせるとそれは、識者と言われる一部の人たちが、対象を非常に狭くとらえていた結果にすぎないのである。少なくともIT革命は、技術、社会、経済の三つの分野にわたる大きな変革なのだ。本来は、まず技術が最初のインパクトになり、社会が変わっていって、それを投影したかたちで経済効果が表れる。真のIT革命とは、30年から50年にわたる地球規模の文明史的事件なのだ。それなのに日本では、経済効果からしか見てこなかった。
 非効率な古い企業がグローバリゼーションで淘汰されるという議論ばかりがなされ、新たな企業であるITベンチャーに対して過剰期待が起きていった。暴騰したITベンチャーの株がいったん下がるのは当たり前である。実力より期待だけで上がった株が下がり、IT投資が一段落しただけで、「IT革命は終わった」というめちゃくちゃな議論がなされている。
 すべてではないが、一部の著名な経済学者の中には、短期的経済効果という限られた局面を語りながら、まるで世界全体を論じているような総合的印象を与える議論をしがちな傾向があるようだ。この結果日本では、IT革命がトータルな視点からとらえられず、非常に矮小化されたイメージが流布してしまった。
 IT革命では、メディアの巨大な変化が起き、それによって社会の価値観が変わっていく。もう少しかみ砕いて言うと、従来の工業社会のシステム、つまり、大量生産した商品をマスメディアで宣伝して大量消費させるというシステムが、根本から変わるのだ。一般に言われているIT革命論では、そのときに、いわゆる「中抜き(中間流通業の省略化)」が起こると言われる。生産者と消費者が直結して、消費者は最も安く合理的なものを買うことができるという。
 しかしこれは必ずしも全面的に正しいとは言えない。むしろ、情報流の中間業者が生まれるのだ。これまでは物流と情報流を合わせたかたちで流通業が成り立っていた。卸問屋がいて、それが物を運び、同時に情報も運んでいた。しかしこれからは、どういう物を買ったらいいかという情報をナビゲートしてくれる人たちが現れる。彼らは情報の売買で手数料を取る。そういうナビゲーターがいなければ、消費者は途方にくれてしまう。ホームページは山のようにあるわけだから、どこを検索していいかわからない。だから、経済学者が鼓吹するモデル、つまりn対nで全員がたがいに直結するとか、情報の透明性さえ確保すれば後は市場メカニズムですべてうまくいくといったモデルは、荒っぽ過ぎて現状をとらえてない。
 一般にインターネットはn対nのメディアであり、従来の一対nのマスメディアに比べてより平等で民主的だといわれる。確かに、インターネットは双方向機能を持つが、それは原理上可能というだけで、必ずしも現実に対等の情報交換ができるわけではない。IT革命のもたらすものは、実は中抜きではなくて、流通業のあり方の変化なのだ。そこをとらえなければいけない。
 インターネット時代にマスメディアが解体されるという議論もおかしい。新聞やテレビがなくなるのではなく、今までと違ったかたちでマスメディアは生まれ変わるし、生まれ変わらなければならないということだ。
 ネットの情報発信者の中にはもちろん既存のマスメディアも入るはずなのだが、一般に言われているのは、個人や企業が自分で情報発信をするようになるというシンプルなモデルに過ぎない。
 ネットの中にはさまざまな情報があるわけだが、その中で「信頼関係」をどう打ち立てていくかという点が実は大切なのだ。ところがその議論はほとんどされていない。たとえばいま、アフガニスタンの状況はどうなのか? 普通の市民が情報発信できると言っても、日本の普通の市民が見に行けるわけではない。だからIT革命とは、今までと違ったニュースソースの探索や取材方法の革新、つまりマスメディアの情報提供や情報産業のあり方そのものをネット社会向けに再編していくことなのである。
 中間卸業や今までのマスメディアを新しいかたちで再編して、いわゆるブロードバンド時代に、どういう商品や情報を人々が求めているのかを真剣に模索する時期に来ている。
 もちろん、一対一の取引で特注の場合もあるだろうし、大量生産された商品のなかでいちばん価格が安いものが求められる場合もあるだろう。全部が生産者と消費者の一対一の取引になるわけではない。また一方、コミュニティーの中で互酬的な消費が行われていく場合もあり、次第に複雑多様なかたちになると予想される。さまざまなかたちでの社会的な変化の中で、経済効果は中長期的に出てくる。要するにIT革命とは、工業社会の生活を変える生活革命なのだ。そこを押さえていないIT革命論は浅薄すぎる。

同時テロをどう考えるか

 テロは非常に大きな問題だと思う。21世紀の最大の問題はテロだと、私はずいぶん前から指摘してきた。9月11日に起きた米国の同時テロで、悲しいことにその予測が現実のものとなった。
 20世紀は基本的に中央集権社会で、最強のユニットはネーション・ステーツ、国民国家だった。国民国家はオールマイティーなパワーを持っている。それが拡大発展していくときに、国同士の利害がぶつかり合い、戦争が起きる。しかし、第一次、第二次大戦のような大きな戦争は、たぶんもう起きないだろう。経済的にも国同士が相互に依存し合っているからだ。
 一方、IT革命がもたらすのは、どちらかというと分権的な社会だ。中央集権的な社会はだんだん崩れていく。分権的になるとは個人が力を持つことだから、個人の欲望が互いにぶつかり合う。その紛争を解決する道を探らなければならないのだが、この点もまた理解されていない。放っておけばいい、レッセフェール(自由放任主義)でいいと言うだけだ。共同体のしがらみから解き放たれた個人が、自己責任で、自由に競争するグローバル市場だけが理想化されている。
 ニューヨークの世界貿易センタービルが破壊された今回のテロはもちろん非常に痛ましい事件だった。だがこれは、自由放任主義のグローバル経済の象徴が壊されたと言ってもいいのではないか。
 レッセフェールでいくと、強者はますます強くなり、弱者はますます弱くなる。ソ連がまだ健在だったころは、マルキシズムにおける理想主義的な側面が、資本主義の行き過ぎを批判する役割を果たしていた。一方で、自由主義陣営でも、公共投資などを通して国民国家がキャピタリズムの偏りを是正しようと努めてきた。つまり、ソ連への対抗上、自由主義国であっても福祉を充実させ、貧しい人たちもそれなりに食べられるし、がんばれば幸せになれると言わざるを得なかったわけだ。だが、ソ連崩壊後はレッセフェールだけになってしまった。失敗者や弱者の怨念はどうなるのかは、忘れさられてしまった。
 アフガニスタンは世界で最も貧しい国のひとつだが、昔からイスラム原理主義の国だったわけではない。内戦前は人々は穏やかに暮らしていた。大国間の利害で国土が荒らされ、そこにイスラム原理主義がはびこっていったわけだ。今回のテロの原因は何か、それを宗教的なバックグラウンドまでさかのぼって論じるには膨大な議論が必要だが、少なくとも貧困、あるいは富のあまりにも大きな偏りが、今回のテロの一つの要因だと指摘できると思う。
 特に90年代に入って、投機経済の暴力性が非常にはっきり表れてきている。金融工学などというものは、一種の錬金術ではないのか。投機経済の規模は実体経済より2けたくらい大きいと言われている。数年前にはアジアの経済が根こそぎにされてしまった。
 グローバル投機経済だけが今回のテロの直接の原因だとは言わない。だが、レッセフェールをふりかざすグローバルな投機経済の暴力性、投機経済を可能にするIT、そして弱者に対する想像力の欠如について、われわれ日本人も認識すべきだと思う。

メディアのなかの現実

 なぜ、21世紀にテロが問題化するかという理由の一つに、テロ支援国家だからといって簡単にその国全体をつぶせないということがあげられる。20世紀の前半までは、一つの国全体をつぶすような荒っぽいことも行われた。だが、人権を重んじなければならない現在、そんなことはもちろんできない。
 また、高度な技術社会は非常に脆弱な社会だということも原因となる。電気を止められたり、インフラをちょっと壊されれば、たちまち社会は混乱してしまう。西暦2000年問題は年代を2けたから4けたにすればよいだけのミスだが、それだけであれだけ大騒動になった。アイラブユー・ウイルスのようなちょっとしたいたずらでさえ、大問題になる社会なのだ。
 だからといって、自由を重んじるグローバル経済自体を否定するのは誤りである。そうなっていくのは時代の流れだ。ただ、その中で出現する歪みをコントロールし、怨念が暴発しないようなさまざまな仕掛けを考えなければいけないということだ。そのための対策がまだきわめて不十分であるように見える。
 今回のテロは非常に痛ましいことだし、個人的にはタリバンを支持するつもりはないが、「これは戦争だ」という考え方はおかしい。近代戦争とは、国民国家が国民国家に対して宣戦布告して行うものだ。国際法上の規定もある。仮に組織犯罪撲滅のためのやむを得ない手段として一時的に軍隊が出動するにしても、テロと戦争とを無原則に混同すれば、将来に禍根を残すだろう。
 言うまでもないが、今後テロが起きないようにするにはどうすればよいかが、根本的に問われているのだ。戦争と同じ手段、つまり軍隊の力によって解決できるのかどうか、よく検討しなくてはならない。下手をすると、アフガニスタンの人たちは取り返しのつかない被害をこうむるだろう。米国の兵士も死ぬ。いちばん被害を受けるのは、女性や子ども、そして老人たちだ。
 北部同盟というのは、民族的な分派であって、別に正義の使者でも何でもないのではないか。北部同盟だけで安定した長期的政権をつくれるのか。イスラムの人々から見れば、米国の力をバックにした傀儡政権と映ってしまうのではないだろうか。いずれにしても、たくさん疑問が残る。
 もちろん、米国は日本の同盟国だから、ポリティカルな理由から、日本政府もある程度はその動きに同調せざるをえないだろうし、当面の支援要請を無視できないことも理解できる。だが同時に、日本人一人一人は、独自の立場から大きい意味で世界のテロ対策はどうすればいいかについて、思想を持たなければいけないと思っている。
 私の専門であるメディア論の立場から言えば、われわれのところに届く情報があまりに一面的な点がとくに気になる。米国からの情報と北部同盟からの情報は連日のように来ているが、タリバンからの情報はごくわずかだ。アフガニスタン難民が何万人もパキスタン国境めがけてさまよっているはずだが、そういう情報はほとんど伝わってこない。アフガニスタンはここ数年来、干ばつにやられているという。おそろしく悲惨な状況が起きているのではないか。
 われわれは同時テロの悲惨さにも、難民の悲惨さに対しても、できるだけ敏感でなければいけない。ところが、今の日本人は、両方に対して十分に想像力を働かせてはいない。ニューヨークの人たちの痛みもそれほど共有されていないような気がするし、アフガニスタンの人たちの痛みなど、ほとんど共有されていないのではないだろうか。非常に鈍感な感じがする。
 特に、スポーツ新聞の見出しなどを見ていると、まるでスポーツか、ビデオゲームと同じように扱っている。実際、ニューヨークでのテロを報じる映像は、ビデオゲームとまったく同様のイメージとして錯覚されたわけだ。そこで、かっこよく報復がおこなわれる。まるきり面白い戦争ゲームそのものに感じられてくる。映像メディアのなかにしか現実はない、というレトリックさえ出てくるほどだ。しかし、ニューヨークでもアフガニスタンでも、家族のある生身の人間が死んでいるのである。記事を書いている人はもちろん、読んでいる人々も想像力を欠いていると言わざるを得ない。
 こういう錯覚が生まれるのはいったいなぜなのかを、考えなければいけない。果たしてインターネットはそういう偏りを直せるのか。それともかえって助長してしまうのか。これは映像とメディアにかかわる根本問題だ。

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