特集 2001.8/vol.4-No.5


 広告の送り手がある意図を持ってメッセージを伝える。消費者の態度が変わる。それが広告のコミュニケーションだと思われていた。果たして、人のコミュニケーションはそれほど単純なものだろうか。新しいメディアの登場と社会の変化の中でコミュニケーションはどう変化してきたのか。CM制作にも携わってきた映画監督・大林宣彦氏と社会心理学者・池田謙一氏の対談を通して考える。
 
 大林 ここに来る前にテレビに出ていたのですが、その番組は17歳の少年がなぜかベンチャーズの音楽にあこがれて、仲間を集めるというものでした。バンドをつくろうと思ったら、昔は、自分の足で歩いて集めるしかなかった。だから、同世代でメンバーがそろうわけです。ところが、彼はメールで募集した。ベンチャーズといえば1960年代のバンドですから、当然のこととしておじさんたちが集まった。その中に17歳の高校生がひとり入って、ベンチャーズをやっている。人集めがeメールになったためにそういうおもしろい構成のバンドができて、世代を超えてやっている。
 出会い系サイトをはじめ、インターネットは相手の顔が見えないためにずいぶん不幸なことが起きていますが、今日はなかなか有効な使い方もあるなと思いましたね。私はeメールはやらないし、新しいメディアを拒否している人間のように思われているのですが、実はそうではなくて、まだ幸せな使い方が見つからないからです。そういう意味で、今日のeメールの話は幸せな使い方だと思いましたね。

 池田 ぼくはパソコン通信と呼ばれているころからメールをやっていまして、ニフティサーブがまだ3000人ぐらいだった87年に始めています。
 ニフティの会員が2、3万人になったころ、心理学のグループをつくろうということになってフォーラム、今でいえば電子会議室をつくってやりとりを始めたのですが、心理学にもかなりオタクな人がいまして、プロではないのにものすごく的確な発想をする人がいるのです。そういう人がフォーラムの存在をかぎつけて集まってきて、やりとりをする中でいろいろな発見があった。幸せな使い方の面ですね。
 しかし、物事には光と陰があるわけで、ネットで知り合った後、毎週、ぼくの研究室に通う人が突然現れた。授業の1時間ぐらい前にやってきて、じっと座っているのです。それを4、5週続けられて……、92年ごろのことです。
 やはり、インターネットにはプラスとマイナスの両面があって、そういう負の面にどう対処していけばいいか、今でも課題ですね。

鉄腕アトムとドラえもんの差

 大林 あるメディアを人が好奇心を持っておもしろがっている時は、メディアは幸福なはずです。しかし、発明されたメディアが鮮度をなくしてきた時に陰りが出てくるのでしょうね。メディアがおもしろさを失った時にその負の部分、陰の部分が出て来ると思うのです。

 池田 それで、思い出したのですが、鉄腕アトムとドラえもんの話です。鉄腕アトムは科学の申し子で、どうやってできたか、どこに10万馬力のエンジンが隠されているかまで全部説明されていますね。科学というものは善のために役立てるものであって、どういう仕組みでそういうすばらしい道具になるかまで説明されていた。
 ところが、ドラえもんはまるで違っていて、4次元ポケットから何でも出てくるし、“どこでもドア”も登場する。近代科学はもともと仕組みがわかることで発展してきたわけですし、それが幸せな使い方をもたらしてきたのですが、ぼくらにはその仕組みがわからないくらいだんだん難しくなってきた。コンピューターがその典型で、あるところをクリックすると印刷されたり、メールが送れたりとか、中の仕組みがよくわかってなくても全部できてしまう。ドラえもんのように、あるボタンを押せば何か出てくるみたいなことになってきた。
 鉄腕アトムとドラえもんの差はものすごく大きい。最近、迷信や占いを信じる人が増えてきている理由もその辺にあると思うのです。それは、世の中に中身のわからないものがたくさん出てきたために、実際は近代科学でできているのにみんなわかることを放棄したからです。それが便利であればいいという世の中になってきている。それはどこまで幸せでしょうか。
 ドラえもんにも必ず悪い連中が出てきて、そういう仕組みを悪用する場面が登場する。それにどうやって対抗すべきか、ぼくらにはまだそれがわかっていませんね。

 大林 手塚さんとは親しくおつきあいさせていただいていました。そして、これはどうか誤解のないように伝わって欲しいと願う、手塚さんにとってもぼくたちにとってもとても大切なことなのですが、手塚さんはある時「鉄腕アトムだけはぼくの大失敗だ」とおっしゃったことがあります。

 池田 そうなんですか。

 大林 アトム、妹がウランという名前もそうですが、アトムは今のA.I.と同じで永遠に大人にならない。手塚さんは、半分子供、半分大人の世界を行き来することで子供のころの初心との距離間をつねに測りたいと思っていた人です。ところが、鉄腕アトムはその距離を持たないんですよね。それで連載の最後の方で、アトムが故障して悪いやつに加担しかけるストーリーを描いた。手塚さんは、「それが、ぼくがアトムにしてやれたことだ」とおっしゃって筆を断たれた。
 初期のロストワールドのころから、行き過ぎた科学は凶器となって人類を滅ぼすというのが手塚さんの一番のテーマだった。鉄腕アトムは行き過ぎた科学だったのではなかったかと思うのです。だから、原子力発電所の事故が起きているこの時代に手塚さんが生きていたら、どんなアトムを描くか。これまでとは違う、新しいアトム像をお描きになったと思うんですよ。
 それに比べてドラえもん、昔でいえばタンクタンクロウは、理論武装されてなくて、びっくり箱みたいなところがある。これはむしろ科学に対する文化といってもいい。
 手塚さんは、科学の負の部分を常に意識されていて、同時代のドラえもんや昔のタンクタンクロウという非科学的だけれども納得してしまうものに、常に嫉妬していた。ドラえもんの納得の仕方は百人いれば百通りある。つまり、最大公約数的なコミュニケーションにまとめられないところにある魅力みたいなものに、終生、身をよじるように嫉妬されてましたね。

 池田 アトムはナイーブな科学、まだ汚される前の科学を前面に出し過ぎたのでしょうね。もちろん、手塚さんは早くからそれに気づいていた。
 しかし、それに対抗するものが何かは非常に難しいですよね。ドラえもんは百通りの解釈ができますけど、では「その根っこは何だ」と問われたらだれも答えられない。

9分のX秒の光と闇

 大林 手塚さんは科学の純真さを信じ過ぎて、だんだん科学に裏切られてしまったんですね。アトムが科学の負の面に加担してしまったという思いがあった。やはり、これは手塚さんのピュアなところです。
 そういう意味では、映画というものも文明の発明品です。ところが、なぜか映画は文化になっているんですよ。

 池田 そうですね。

 大林 この文明と文化のはざまにあるものは何だろう。つまり、文明はあくまでも論理的に説明できるものだけれども、文化はどうも説明ができない世界でしょう。
 映画は非常におもしろいメディアです。1時間半の映画でスクリーンに絵が映っている時間は何分ですかというクイズがあるのですが、実は、90分すべては絵を見ていない。映画は1秒間に24枚の絵がレンズの前を通り過ぎるわけですが、そのまま見たのでは、ちょうど列車の窓から線路ぎわの小石を見るようなもので、線になって流れて映像をむすばない。ところが、そこで瞬きすると石がぱっと見えるでしょう。あれと同じ理屈で、映写機は1秒間に24回瞬きをするんです。シャッターが閉じて、フィルムが入れ替わる間が実は9分の4秒ありまして、シャッターが開いて絵が映っている時間は9分の5秒なんです。そうすると、スクリーンに絵が映っているのは90分の内の50分で、40分は闇を見せられているわけです。
 観客が金返せと言わないのは、科学的にいうと残像によるものですが、結局は行間を見てるんですね。自分の心の思いを見ているわけです。
 人間というのは見たものを自分の想像も含めた体験で受け止めるわけでしょう。たとえば、大林宣彦が水の入ったコップを持っている映像が9分の5秒あったとします。水がキラっと輝いた。ぱっと目を閉じた瞬間、この水を見ていた人は、あの美しいきらめきは子供のころ泳いだ川のきらめきだななどということを瞬時に思うわけです。そうすると、この映像は好もしい映像になる。
 ところがその瞬間、私の手の方を見て、大林宣彦も年をとって、ちょっと肌が汚れているななんて思っている人にとってはこの映像はちょっとうとましいものになるんですね。実は9分の4秒の間に好もしいかうとましいかに分かれるのが映画のコミュニケーションなのです。
 それが映画のコミュニケーションのおもしろさで、記録装置として発明されたものが、記憶装置になってしまった。記録という科学から記憶という文化になったというのが、映画の百年の歴史です。

 池田 なるほど。

 大林 記憶というのは、言ってみれば好意的な誤解でしょう。正確な理解ではなくて、自分のイマジネーションで誤解するわけです。好意的な誤解になるから恋をするわけです。映像装置としては1秒の半分近くが欠落しているわけですが、その欠陥があるがゆえに映画は100年、こんなに人々に愛されてきた。

物語を描けない今のメディア

 池田 映画を作る側は9分の4秒に記憶を込める、意味を込めるとすると、その受け止め方は、人それぞれであっていいのですか。それとも、みんなが共有できるようなものであった方が望ましいのでしょうか。

 大林 19世紀の詩は行間を読む詩でした。そのために、行の終わりに韻を踏んだ。どうかこの行間を私が願うように見てくださいという思いを込めて、韻律を踏んだ。
 映画も同じです。映画は、大きなスクリーンに映し出されますが、人間の目は瞬間には点しかとらえないわけです。だからコップを見るか、私の手を見るかは自由なんですが、コップを見てもらうためにコップにフォーカスを合わせて、汚れたうとましい手の方はフォーカスをぼかすとか、あるいはコップにライトを当てて、このうとましい手の方は闇にしようとする。これが演出だったんです。
 そういう意味でも、映画は情報ではない。つまり韻律のための映像なのです。
 ところがこの20年、映像派と呼ばれるスピルバーグ以降の映画というのは全部に光が当たり、フォーカスが合っている。

 池田 情報になってしまったんですね。

 大林 全部が情報になっている。一見おもしろいけれども、映画の韻律を失わせた。韻律を失ったということは、つまりテーマを伝える言葉が混乱しているということです。だから、淀川さんなんかはスピルバーグ以降の映像派の映画を「物欲しげだね」とおっしゃるんですよ。なんでも見せちゃうというのは映画じゃないねと。
 だから、私たちにとっては情報をどれだけ制御して、この16歳のきらめきだけに観客の視線を誘うかというのが、これが実は演出だったんです。演出というのは省略であり、抑制であったんですよ。

 池田 スピルバーグ以降の映画というのは、インターネットと似てませんか。

 大林 そうですね。

 池田 インターネットも、すべてが見えるから、どこに焦点を当てていいかわからない。

 大林 映画をテレビのブラウン管で見ることの最大の間違いは、ブラウン管という狭い範囲に点が集約されるから、これまでの映画の演出が効かないことです。だから、テレビ時代というのは、フォーカスも全体に、ライトも全部に当てるという方向にきてしまうわけです。映画館ではスクリーンの右端を見ていたら左端は見ていませんもの。

 池田 見えないですね。

 大林 それは、スクリーンの右端にみんなの視線を誘うように演出されているからです。
 情報が点に集約されていればみんなが同じものを見るから、情報装置としてはよりいいわけですよ。でも、記録装置、情報装置ではあるけれども、好意的な誤解という幸せなコミュニケーションを生む物語装置ではなくなったところが、今のメディアのかわいそうなところです。

 池田 スピルバーグ監督がそういう形で映画を作り始めたというのは、テレビを意識して作っているということですか。それとも、テレビとはぜんぜん関係がない?

 大林 根本的には、人間が物語性を喪失していったからでしょうね。アメリカ映画は1960年代のベトナム戦争以前と以降にくっきり分かれます。ベトナム戦争以前には彼らのイリュージョン、夢、理想を描くという意味で物語がまずあったわけです。ところが、彼らが信じていた物語がことごとくあの戦争によって裏切られていく。目を閉じて夢を見る時代は終わり、目を見開いて世界を凝視する時代になった。
 ポップアートがそうでしょう。アンディ・ウォーホルのマリリン・モンローの顔だけを描いた作品も行間がないケースですよね。あるいはフォークソングがそうです。オーケストラはひだがいっぱいある半分闇の世界です。光と闇のはざまにあるのが音楽ですけど、フォークソングは肉声でメッセージを語ってギターを弾くという光の世界。あの時代からすべてが闇を失っていく、というよりは排除してきたんでしょうね。
 テレビ、ビデオというメディアはまさに90分まるまる映像が映っている完璧な映像情報装置なのです。だから、映画がテレビに変わっていったというのは実は産業上の問題だけではなくて、人間の欲望が目を閉じて幸せだった時代から目を見開いていなければ幸せではない時代に移っていったということです。
 ビデオは行間のない夜の闇を持たない装置ですから、逆に物語が描けないのです。

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