特集 2001.4/vol.4-No.1

本をめぐる危機
知のあり方としての本を考える
Kaitarou Tsuno
1938年福岡県生まれ。評論家、「季刊・本とコンピュータ」編集長、和光大学表現学部教授。早稲田大学文学部卒業後、64年に晶文社に入社以来、約800冊の書籍編集に携わる。80年代からDTPを手がけ、印刷と本、流通の未来を考えるなかから電子文化のあり方を提言。著書に「本はどのように消えてゆくのか」「新・本とつきあう法」など。


 出版界に身を置く編集のプロフェッショナルたちは、現在の出版不況をどのようにとらえ、また、次の時代への展望を開こうとしているのだろうか。デジタル化が本の文化の歴史的転換点になることを見すえて4年前に「季刊・本とコンピュータ」を創刊、電子出版に関する積極的な発言を行っている同誌編集長・津野海太郎氏に聞いた。
 
 昔から、すべての本が売れていたわけではないし、売れない本はいつの時代にもあった。しかし、500部単位、1,000部単位の本でも、必要とする読者に届いていたし、届いたという手ごたえが編集者なり、出版社に戻ってきていた。それが最近はなくなってきている。
 時間と手間をかけて作った本が、書店の店頭に1日、2日置かれただけで戻ってくる。返品されて倉庫に入ったら、まったく動かなくなってしまうことが普通になった。
 本は5年、10年と時間をかけて書かれたものほど、軽くは読めないものになっていく。そのような本が読者からも市場からも敬遠されてしまうようになると、本を作るエネルギーが著者にも編集者にも出版社にもなくなってしまう。出版界は、いまそういう状態になりつつある。

雑誌のサイクルで動く出版物

 本はいま突然売れなくなったわけではなく、80年、90年代を通して出版界の底に徐々にたまっていったものが、一昨年あたりから一挙に表面に出てきたと感じる。
 その原因は、出版物の流通が雑誌中心に変わってきたことが大きい。それまで書籍中心だった出版物が80年代初めに逆転して、雑誌の比率が60%、70%になっていった。それに伴って、出版社も、取次も、書店も雑誌をビジネスの中心に置く方向に体質が変わっていった。雑誌は、週刊誌だったら週単位、月刊誌だったら月単位で売れ行きの判定が下る。
 アメリカのように雑誌と書籍の流通の仕組みがまったく違っていてマガジンショップとブックストアに分かれていれば話は別だが、日本の場合は混ざっている。もともと雑誌を主にした大きい出版社が力を握っている国だから、どうしても強い方に引きずられてしまう。だから、書籍も、それに見合ったような仕方で、ばっと目をひくテーマで、ばっと目をひくタイトルをつけて、宣伝をして短期間に売る形に移行してきた。
 そうなると、書店もそういう仕組みに合わせない限り生きていけない。
 出版は大きいシステムで動いている。それが長い時間かけて変わってきたわけだから、何か特効薬があって、それで一挙に解決するのは難しい。だから、みんな出口が見えなくなってしまったということだと思う。

出版の枠組みを変える動き

 本は、売れる本、売れない本、質の高い本、低い本、利益のいい本、悪い本もあるという状態でなければ、市場も作る側も生き生きしない。それがいつの間にか、売れる売れないだけが編集者にとっても、読者にとっても一番リアルな尺度になってしまった。それ以外の価値は非現実的、幻想的なものとしてしか受け取られなくなってしまった。本がヒットすることだけが、リアリティーがあるということになってきている。
 そういう考えはある種の毒だから、だんだんたまってくる。売れないと作る側も満足感が得られないし、読者も自分が参加している感じがないと満足できないようになってしまっている。
 70年代に角川文庫が出てきて、岩波や新潮的ではないやり方でミステリーなどをどんどん出していき、映画とタイアップして売る形を作った。それによって、文庫の枠組みが広がってきた。いまは文庫という枠のなかに、文学作品、学術関係、ノンフィクションなどいろいろなものが入り始めている。
 文庫は必要最低限の要素だけであまり金をかけないで本を作れる。文庫の枠組みをそういう方向に広げていったことは、決して悪いことではない。今後の書籍のスタンダードは、文庫や新書のように小型化していくかもしれない。
リキエスタ
リキエスタ
 もう一つの方向は、オンデマンド出版だ。岩波書店、筑摩書房、みすず書房、晶文社、白水社、平凡社の6社が集まって、最近そのオンデマンド事業を立ち上げた。いまの市場では絶対売れない人文系の堅い本で、文庫にするにも分量が少ない原稿用紙150枚以内のものばかり。「リキエスタ」の名称でオンデマンド叢書として4月10日に第一弾を発行した(注1)
 これまで本はぱっと売るために、派手な装丁をしたり、帯をつけたりしてきた。しかし、オンデマンド出版で比較的簡単に本が作れるし、文庫や新書のように印刷された紙がとじてあれば中身だけで本は売れる。そういう本の簡素化、必要最低限の要件を整えて本を作る動きも今後は出て来ると思う。
 各出版社がそれぞれの会社に閉じこもるのをやめて、テーマによってその都度チームやプロジェクトを組んでやっていくことができれば、出版の仕組みにも少し動きができてくると思っている。
 すでに、講談社、新潮社、文藝春秋などが集まって、「電子文庫パブリ」という電子本の販売をやっている。まだ、電子本の企画は各社ばらばらにやっていて、販売窓口だけをひとつにしている形だが、これをオンデマンド本や文庫、新書の形でやっていけば、比較的統一が組みやすいと思っている。
 例えば、司馬遼太郎の作品の版権は数社が持っている。「電子文庫パブリ」をもう一歩すすめれば、ひとつの企画に各社が相乗りして、一人の作家の全集や著作集ができるかもしれない。そういうふうな企画に応じて動ける機動的な仕組みを作るようになれば、おもしろい気がする。売れた部数分の売り上げがその出版社に立てばいいだけだから、そんなに難しい話ではない。読者にとっても、ひとりの作家の作品が出版社の別なく一か所に集まるようになり、装丁も同じだし、探すのも楽になる。

(注1)「リキエスタ」は、上記の6出版社と「本とコンピュータ」編集室、大日本印刷との共同企画。各出版社が3点ずつ拠出し、計18点を4月10日に刊行した。各A5判サイズの軽装版で平均94ページ。平野甲賀氏がブックデザインを手がける。同叢書は、大日本印刷の子会社であるトランスアート社から発売、主要書店で販売していくほかネット販売も行っている。価格は1000円と1300円の2種類。リキエスタはイタリア語でリクエストの意味。

商品としての本

 1社の利益だけではなく、出版社の力をいろいろな仕方で組み合わせれば、出口のない状況を打開する可能性はある。
 ただ、その場合も、従来の仕組みでも使える部分は使うことになるだろう。それなりの必然性があって、長い時間をかけて変わってきたものを丸ごと全部ひっくり返して、新しいシステムを作ることは多分できないと思う。しかし、新しい要素がだんだん積み重なっていけば、いずれは変わる。
 長年、出版を支えてきたこれまでの枠組みが壊れ始めていることは当面は非常につらいことだが、長い目で見ればおもしろい方向に変わっていく可能性も出てきていると思う。
 本は生まれて以来ずっと商品として存在しているわけだから、「売れる本」を別に否定する必要はない。どんな堅い本を作っている編集者でも、売れればうれしい。それは、著者も出版社も同じだ。
 しかし、本は同時に「売れればいい」だけの商品ではない。売れればいいだけの方向に雪崩を打っていけば、出版界全体がだめになることは目に見えている。しかし、そういう考え方に見合った出版の仕組みができてこないと、いまの情勢のなかでは負け犬の遠ぼえになってしまう。
 つまりいまは、本でもうけて、給料をたくさんもらいたいと思っていない人まで、「売れる」ことを基準とした方向で本を作らされている。「そうではない場所で、おれは本を作っているんだ」という立場が、なかなか成立しにくい。
 しかし、出版社はいまはどこも苦しいから、会社単位で動こうとしても動けない。だから、会社を超えた場所で抜け道みたいなものを探っていくしかない。それは、もしかしたら出版社の存在価値を薄れさせたり、自分の足を切ってしまうようなことにもなりかねないが、それくらいのことをやってみないと難しいというところに出版社は来ていると思う。

読者の側の変化

 読者の変化は何段階かあったが、一番大きく変わったのは80年代後半からだと思う。このころから、人文系や社会科学系の本といった歯ごたえのある本から読者が離れ始めた。
 学生たちが本を読まなくなったのはもっと早くからだが、少なくとも80年代初めのころは女性が本を読んでいた。「女の時代」と言われ、女性が社会進出をしはじめたころのことだ。その流れももうなくなって、女性も本を読まなくなってきた。昔はビジネスマンは本を読むと決まっていたが、そのビジネスマンが本を読まなくなった変な影響を受け、女性も本を読まなくなった。だんだんそういう状態が進行してきて、一斉に本を読まなくなったのがこの15年、80年代後半からだと思う。それにはいろいろな原因があるが、この人の本が出たら必ず読まなくてはという大作家、大インテリがいなくなってしまったこともある。
 20世紀の前半は戦争や革命があり、そのなかで若いインテリたちが、現実と自分のベーシックな理論・哲学とを組み合わせながら、どうやってこの世界で生きていくかを考えなくてはいけない時期があった。しかし、次第にそういうものがなくなってきて、みんな自分個人の中に追い戻される。人の生き方について考えたり、あるいは歴史上いろいろな経験をしてきた人たちの本を読んでみるという気持ちも、必然性がなくなってくる。
 そうすると、本は違う目的に使われはじめる。本という入れ物は、印刷した紙をとじて表紙をつけたもので、数学、哲学、語学、実用、ビジネスと中身は何でも入る。本は、それまでのような現実と向き合う道具というよりは、実用的な道具、あるいは娯楽のための道具という方向に変わっていった。
 以前は、一生を左右するような体験を本に求めたが、いまはそういう重いものを本に求めなくなった。その傾向は、学生だろうと、普通の人であろうと、インテリであろうと同じだ。

産業としての出版の二面性

 出版は確かに産業として発展してきたが、産業というには規模が小さ過ぎる。市場規模もピーク時には2兆7,000億円あったが、いまは2兆3,000億円に減っている。昔はソニー1社に及ばないと言っていたが、いまはダイエーの借金にも及ばないくらいの小さい規模だ。しかし、産業の規模が小さいのに影響力が大きい不思議な産業でもある。単純に産業というには割り切れない部分がある。実際の経済規模の大小と、もう少し別の大小が多分そこにはある。それはある種の精神的な幻想を生み出す元みたいなものだと思う。
 本は、商品であると同時に、図書館に行くとそれがタダで借りられるものになってしまう。この二面性が、普通の商品とは違う点だ。本は、作られると同時に値段が付けられ商品として売られる。そのことで出版人は生計を立てている。同時に、かなりの部分はそれをタダで見せる、つまり、商品ではなくてある種の文化財になる。そこの部分を本が拒否できるかというと、拒否できない。図書館でなくても、借りてコピーするということが日常的に行われている。本には、そういう二面性、商品であると同時に商品であることを否定するような部分が最初から仕組みの中に入っている。
 だから、作る側にも自分が作っているものは商品であると同時にある種の文化資産、社会の公共財産だという意識がどうしたってつきまとう。
 そういう二重性が、とりわけ書籍の場合はある。雑誌にもその部分はもちろんあるけれども、度合いは少ない。

広告の入れ物と化した雑誌

 いまの雑誌は自分が作りたいものを作るというよりは、マンガ雑誌を除けば広告の入れ物になっている。ある層に向けてマーケットリサーチをやって、読者のセグメンテーションをやってという仕方で作られている。いま、この層の人たちが読みたいだろうと思われるものを作るという方向で雑誌は作られてきた。80年代から増えてきた雑誌はそういう雑誌だ。そうすると、編集部もある種の広告代理店化していく。そういうふうに世の中が変わった。
 これは、最近の政治にも言えることだ。政党もこの国の政治をこういう方向で変えたいという人が集まった集団であるはずのものが、ある特定の層に向けてどうやったら受ける政策を作り出せるかマーケットリサーチをかけて選挙運動をやるようになった。そうやって有権者のセグメンテーションをやって、その層に向けた政策を考える。政党から企業まで、みんなそういう方向に動いている。
 雑誌も同じようにマーケット志向に動いていった。そうすれば広告が取れる。しかし、そういう方向で作ってきた雑誌が90年代後半に入って、全部失敗し始めた。それでいまは、やはり元通り自分たちが作りたい雑誌を作ってみるしかないと言われ始めている。広告代理店までそういうことを言い始めている。
 しかし、自分たちが作りたい雑誌を作れる編集者が出版界に生き残っているかというと、もう、ほとんど残っていない。いまの編集者に「おまえ、何でも好きなことやってみろ。自分でやりたい雑誌って何だ」と聞いても、それが出てこない。相手の顔色を見て、相手に合わせることはできる。その部分では完全にプロフェッショナルになっているけれども、自分で何をやりたいのかといってもわからなくなってしまっている。20年かけて、そういうものを出版界から消していってしまった。学校を出てからすぐ読者を見ながら雑誌を作る環境に放り込まれて、そのなかで育ってきた編集者たちに、自分たちがやりたい雑誌ができるかといったら、それはできない。そうすると、いくら作っても同じようなものしか作れないことになってしまう。
 書籍の編集者は自分の企画で売っていく部分は雑誌よりはまだ残っているが、それでも、どこかが売れる本を作れば、タイトルから装丁から全部まねして作る方向へ行く。それを恥ずかしいとも、つまんないことだともみんな思わなくなっている。

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