特集 1998.12/vol.9

外資系広告会社のビジネスルール
歴史的視点から見た欧米広告会社 青山学院大学 経営学部教授 小林保彦
 
 アップルコンピュータ「Think Different.」の企業広告は、米国のクリエーティブ・エージェンシーTBWA Chiat/Day が世界統一のイメージとメッセージで制作した広告だ。こうしたワールドワイドコンセプトの広告づくりが最近増えてきている。一方、巨大エージェンシーグループはグローバルネットワークの完成を目指して日本進出を図り、米国、イギリス、アジア、オーストラリアでは、メディアプランに沿って媒体を買い付けるメディアバイイングが盛んになってきている。
 一見何のつながりもないようだが、九〇年代に起こった欧米多国籍企業の意識変化、メディア環境の変化が、こうした事象をつないでいる。欧米企業は広告を経営機能の一つとしてとらえ、コミュニケーション力を向上させるとともに、広告、および広告会社にも厳しくコスト効率を求めはじめている。広告取引の透明性、コミッション制からフィー制への移行といった、いわゆる広告のグローバルスタンダードの流れも、欧米の広告主と広告会社の関係、広告会社の動向を歴史的に後づけてみないと見えてこない。
 この機会に、欧米広告会社の動きをやや長いスパンで整理してみたい。

欧米広告会社のグローバル化

 広告会社の発展の歴史は、広告主の発展の歴史を追いかけるように変わっている。欧米、オーストラリア、アジアにおよぶ合併・買収活動によって巨大エージェンシーグループが誕生する最近までの米英広告会社の歴史を簡単にまとめると、次のようになる。
 五〇年代、六〇年代の米国の広告主は経営規模の拡大や多角化のため、合併・買収活動を展開し、同時に世界市場に乗り出していった。広告会社の国際化も五〇年代から始まる。J・ウォルター・トンプソン、ヤング&ルビカム(Y&R)、マッキャンエリクソンなど、米国大手広告会社の組織拡大が活発になったのも同時期である。六〇年代、世界の多国籍広告会社の上位は米国広告会社で占められた。一九五七年から六七年までの十年間、米国の多国籍広告会社は三十二社もの英国広告会社を買収し、七〇年には英国マス広告に占める米国の多国籍広告会社六社のシェアは四二%にまで到達した。
 しかし、この時代、米国広告会社は国際ネットワークを確立するための買収活動に力を使い過ぎたため、米本土内のネットワークを確立することができなかった。米国内の支社を成功させない限り、本国の広告主を獲得することができず、かつ十分なサービスが提供できなかった。そのため、グローバル展開が弱まっていった。
 米広告会社の圧力が弱まったことで、七〇年代後半に入ってから英国広告会社と同時に、ヨーロッパのいくつかの現地広告会社が自社の地位を上げていくようになった。広告会社の買収劇は次第に英国へ移っていった。
 八〇年代初期、英国の広告会社はクリエーティブ力を基盤に、国内市場はもちろん、海外においても名を挙げるようになっていった。後に「ニューウエーブ」と呼ばれるこれらの広告会社は、サーチ&サーチ社(S&S)、ボース・マシミ・ポリット社(BMP)、コレット・デッカーソン・ピアス社(CDP)などである。
 中でもS&SやWPPは米国市場に参入し、独自の多国籍展開を行った。S&Sは一九七〇年に設立し、一九七四年には英国広告会社三社を買収した。同時に株式を公開している Compton UK 社と合併するなど、初期から積極的な国内買収計画を進めていった。七八年から七九年、英国保守党の広告キャンペーンを担当した同社は、サッチャー人気とともに英国経営者たちの間で名声を上げた。S&Sの経営はクリエーティブ同様、媒体社と広告主の媒体料支払いを広告主に有利に展開することによって広告業界の力を英国金融界に証明することができた。これにより、広告会社は株を購入することができるようになり、株主割り当て発行による資金を使ってより大きな拡大を行った。
 S&Sの海外ネットワークは八〇年代初期からつくられるが、これもまた買収によって行われた。S&Sの米国における最も有名な買収は、八二年のコンプトン・コミュニケーションズ社 、八六年のダンサー・フィッツジェラルドサンプル社とテッド・ベイツ社の買収であった。八七年に、S&Sは世界の売上高ランキングにおいてY&Rに次いで第二位となり、米国では第三位にランクづけされた。
 S&Sの活動は、他の英国広告会社が多国籍化を図るための刺激となった。八〇年代後半には、ロンドンに拠点を置く多くの広告会社が積極的な合併・買収活動に入った。八〇年に設立されたWPPは金融投資を利用して、米国と英国の制作会社を買収する戦略をとった。八五年には元S&Sの財務担当責任者で、米国における初期の買収劇の一翼を担ったマーチン・ソレルが同社に入り、WPPを世界一規模の広告会社にする役割を担った。同社は八七年に五億六千六百万ドルでJWTグループを買収した。八九年には Ogilvy & Mather Worldwide(O&M)系列を八億六千四百万ドルで買収した結果、世界の総売上高ランキングの第一位に位置するようになり、九〇年代の世界最大広告会社グループとして位置づけられた。しかし、米国資本も好景気を背景に巻き返しを図り、一九九七年にはDDBやBBDOを傘下に納めたオムニコムグループが世界売り上げ一位の座に着いている。
 また、欧州から始まったメディアバイイング・サービス会社(MBS)は、八〇年代の広告会社の合併・買収活動と重なって成長し、九〇年代には欧米、アジア、オーストラリアにおよぶ多国籍ネットワークをつくった。このメディアバイイング・サービスの国際化は、広告主にとってより便利な広告のグローバル展開をもたらした。さらに、広告会社がメディアバイイング・サービスと提携することによって、クリエーティブ制作だけではなく、メディア戦略におけるグローバルサービスが可能になったからだ。

相関図

中・小型エージェンシーの成長

 欧米の広告会社は、基本的に競合関係にあるアカウントを複数扱うことはできない。これは長期にわたって確立された広告会社とクライアント間における「排他性(exclusivity)」という競合ルールである。日本語のいわゆる「一商品一社制」である。巨大エージェンシーグループは傘下に世界にネットワークを持つ広告会社を数多く持っている。それぞれの広告会社内では競合する企業を扱わなくても、親会社を一単位とみなせば競合企業を同時に扱うことになる。広告会社のM&A、グローバル化によって、多くの広告主が移動する結果となった。
 日本の電通、博報堂のような、すべて内部にそれぞれの専門機能を持っている一社体制ではバンドリング(統合化)ができる。しかし、欧米の広告会社は日本のような系列会社・子会社構造をつくらず、どちらかといえばアンバンドリング(専門化)に向かっている。
 その理由の一つは、八〇年代末から九〇年代初半にかけて欧米の数多くの中・小型クリエーティブエージェンシーが著しく成長したことにある。巨大エージェンシーグループもそれに対応して専門化を図るようになった。特に米国では、クリエーティブエージェンシー、プランニングエージェンシーと呼ばれる中・小型広告会社が現れ、その企画・クリエーティブ能力が高く評価されている。この例としては、TBWA Chiat/Day、Wieden & Kennedy、Fallon McElligott、Goodby Silverstein  & Partners、Hal Riney & Partnersなどが代表的である。これらは、一九八〇年代後半に英国のアカウントプランニング、アカウントプランナーを取り入れたものである。
 八一年、Chiat/Dayが米国で初めてアカウントプランニング構想を導入して以来、八〇年代後半に、米国各地(特に西海岸)の中・小型エージェンシーは、大手広告会社が買収合併に専念する間に、SP、DM、イベント専門代理店として成長を図った。クリエーティブショップ、SPブティックとも呼ばれるこれら専門代理店は、八〇年代末米国で起こったダイレクトマーケティング、マキシマーケティングといったSPマーケティングブームの一翼を担った。あらゆるマーケティングコミュニケーション手法を統合するインテグレーテッド・マーケティング・コミュニケーション(IMC)の認識が高まる中で、広告主はマスメディア広告以外の広告活動にも目を向けるようになったのである。

広告主の主体的行動の時代

 九〇年代半ばからの広告主の動きで特徴的なのは、広告会社に対してアカウンタビリティーが強まったことだろう。アカウンタビリティーという考え方は、行為を説明する責任、義務である。不況時に広告に「効果」が求められるのは、金融恐慌後の三〇年代、石油ショックの七〇年代にもあった。現在の日本も同じ状況だろう。だが、九〇年代半ば以降の欧米が過去と決定的に違うのは、メディア環境と広告主の意識の変化である。
 まずメディア環境では、ダイレクトマーケティングの成長によって、広告主はフリーダイヤルなどを利用して広告反応を追跡する機会を得たり、データベースマーケティングによってより精密な方法で自社の広告活動を実感できるようになったことが挙げられる。メディア環境の変化によって、広告主は広告効果を広告会社を通さず直接知ることができるようになった。
 広告主の意識の変化はIMCによるところが大きい。米国広告主の間に主体的にIMCを遂行しようとする意識が生まれ、広告投資の効果を求める意識がより高まった。
 この広告主の主体性向上の背景には、九〇年代の広告会社のリストラ現象が働いている。広告会社から流失した人材が広告主の宣伝部門に入るケースが多くなり、九〇年代末の広告主は高いレベルの専門知識を持つに至り、自社の広告コミュニケーション活動について真剣に対処しようと動き始めたのだ。また、広告主がIMCの主体になっていくことが、専門広告会社に対する評価の厳しさを増す結果にもなった。

揺れる報酬制度

 最後に、広告会社に対する報酬制度について述べたい。広告取り次ぎ、広告代理から発展した日本の広告会社は歴史的に媒体社との結びつきが強い。欧米は媒体寄りのレップと広告主寄りの広告会社の競争時代を経て、広告主とパートナーシップを組む広告会社が主流になった。欧米広告会社にとって、媒体手数料(コミッション)は広告主に請求するものという前提を理解しないと、以下の話はわかりづらい。
 アメリカ広告主協会(ANA)の実態調査によると、アメリカでは一五%のコミッションを払っている広告主が、一九八三年には五二%いたが九七年には九%に減少した。アメリカの広告会社の取引方法は明らかにフィーベース主流になっている。
 広告会社に対する報酬制度について広告主側が見直しを進めてきたのは八〇年代末からであるが、九〇年になると米国食品業界を中心に報酬制度見直しの機運が一段と強まって「ボーナス制」「インセンティブ制」などを加味した新方式が次々と導入された。
 フィリップ・モリス傘下の食品会社クラフト・ゼネラルフーズ(KGF)は、九一年、担当広告会社の再編成を行うとともに、広告会社に対してスライド制を導入した。その要点は、KGFと担当広告会社が年初にあらかじめブランド商品の売り上げ目標を設定し、(1)実績が「優秀」な場合はコミッションは一六%、(2)単に「満足」すべき成績ならばコミッションは一四%、(3)実績が「満足以下」ならばコミッションは一三%、という三段階のスライド制である。
 食品会社キャンベル・スープではコミッションの基本レートを一三%まで下げ、成績次第で一五%に引き上げる新方式を採用した。ほかにもカーネーション、ナビスコ・ブランズ、レイノルズ・タバコなどがインセンティブを加味した新報酬制度を採用した。
 その逆提案として、米国広告会社DDBニーダム・ワールドワイドは、九〇年六月に広告会社の報酬制度として、保証された結果という「ギャランティー制」を導入した。この方式の要点は、(1)広告会社とクライアントが交渉を通じてあらかじめブランドの売り上げ目標を決める。(2)広告活動の結果、その目標を超えた場合、広告会社は最高二〇%のコミッションを受け取る。(3)逆に目標に達していなかった時は、コミッションを一〇%からゼロまで引き下げる、というものである。
 この大胆な提案は業界関係者の論議を呼んだ。さまざまな報酬制度における広告主側の真意は、伝統的な固定コミッションを見直し、広告費を有効に使いたい点にある。それに対してDDBニーダムの提案は広告主側の動きに対抗する防衛的な処置とみなされている。
 これにはいくつかの問題点がある。広告と売り上げとの関係が明確ではないこと、最初の売り上げ日標をどこに設定するかということである。そして、逆に目標に達しなかった場合、広告会社のコミッションが最悪ゼロにまでなるケースは、「これでは危険が大きく、広告会社の自殺行為ではないか」という意見もあった。最近ではDDBニーダムはこの方式を巡って議論を呼んでいる。Y&Rも大手アカウントに対して「成果による報酬(pay-for-results)」という方式を採用している。
 コミッション制からフィー制へという大きな流れはあるが、広告会社の報酬制度はまだ揺れているというのが現状だ。ただ、日本の広告主と広告会社の間にあるような曖昧(あいまい)さはそこにはない。広告主、広告会社それぞれの立場で、シビアに経営効率を求めているのだ。

参考:
「広告会社取引構造の変化(英米)」小林保彦著 青山経営論集第三十二巻第四号、
「広告会社取引構造の変化(日本)」同第三十三巻第一号
「広告ビジネスの構造と展望―アカウントプランニング革新―」小林保彦著 日経広告研究所・日経新聞社刊
「新価値創造の広告コミュニケーション」小林保彦+疋田聰+和田充夫+亀井昭宏著 ダイヤモンド社刊



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