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特集イノベーションのためのエスノグラフィー

(2010.10.5/2010年10・11月号 特集)

現場の徹底観察からソリューションを生み出す
大阪ガス   行動観察研究所 所長   松波晴人 氏

大阪ガス行動観察研究所 所長 松波晴人 氏

「行動観察」に特化した国内初のリサーチ機関が、「大阪ガス行動観察研究所」だ。初代所長の松波晴人氏は、2001年からエスノグラフィーだけでなく、人間工学、環境心理学を駆使して現場の改善や製品開発に取り組んでいる。

──エスノグラフィーをどのようにとらえていますか。

  大阪ガスで取り組んでいるエスノグラフィーは、文化人類学などアカデミックな意味で言われているエスノグラフィーとは少し違います。エスノグラフィーは、本来は文化を調べるための手法ですが、われわれの目的はソリューション開発ですから、観察に1年もかけられないですし、そういう意味では、かなりせっかちなエスノグラフィーだと思います。

──「行動観察」という言い方をされていますが。

  業務改善やサービスの生産性の向上などのソリューション開発のために、われわれは、まず現場に足を運び、そこで見てきたことを六つの観点で解釈します。エスノグラフィーもその一つで、全体を「行動観察」と言っているんですね。

「行動観察」の六つの観点

──六つの観点というのは、どういうものですか。

  まず「エスノグラフィー」ですが、調査対象が根差す文化や価値観を調べるということです。例えば、同じ系列の飲食店でも、店によって朝礼で言うことが違うなど、A店舗とB店舗では文化が違う。家庭においても、有機野菜や料理にこだわる家とか、スピーディーな料理に徹する家とか違いがある。そういう価値観や文化をもとに行動を解釈するのがエスノグラフィーです。
  次が「人間工学」です。人間にはいろいろな限界があります。例えば、視野にも、持てる重さにも限界があります。パッと見て覚えられる数も限られています。人間には、いろいろな制約や限界があるわけで、それをもとに現場の人間の行動を解釈しようというのが人間工学です。
  それから「環境心理学」。人間の行動は環境に非常に左右されます。例えば、窃盗は別に気温とは関係しませんが、殺人や暴力行為の発生件数は気温の上昇と相関しているんですね。それから、うるさい部屋では人は非協力的で、静かな部屋だと協力的になるということもある。そういう知見をベースに現場の行動を解釈するということです。
  「社会心理学」というのは、人間は社会的動物なので、集団になると個人の時とは行動が変わるということです。例えば、上司が代わっただけで、働きぶりや体調が変わったりする。
  それから、「表情分析」「しぐさ分析」があります。人間の表情というのは実は世界共通です。未開の地で暮らしている人であろうが、同じ感情のときは同じ表情をします。FBIやCIA、入国管理局のスタッフはこうしたトレーニングを受けていて、表情を読むことができるんですね。私も、そのトレーニングを受けていますが、この人に今こういう感情が起きたなというのはわかる。ただ、その理由はわからないんですね。「しぐさ分析」は、相手が腕組みをしたときは「そのままでは受け入れられないよ」という意思表示といったことです。ただ、「表情」が世界的に共通なのに、「しぐさ」は文化の影響が大きいので、やや使い方が難しいところがあります。
  そういう人間に関する知見が世の中にたくさんありますから、それをもとに現場の人間の行動を構造的に解釈し、その解釈をもとに改善案、ソリューションを考えるわけです。ですから、ある程度根拠を持った案になる。このため、これまで携わった案件で効果が上がったということはあっても、下がったことはないんです。われわれの「行動観察」と普通のエスノグラフィーとの違いは、このへんのノウハウだと思います。

「行動観察研究所」の設立へ

大阪ガス行動観察研究所のサイト

大阪ガス行動観察研究所のサイト

──なぜ大阪ガスが、エスノグラフィーに取り組んだのでしょう。

  「行動観察」を私がやり始めたのは2001年ですが、実は会社の留学制度で、99年から2年間、アメリカに行き、人間工学や環境心理学を駆使して現場を改善するプロジェクトを学んできたのです。ですから、最初は会社の指示があったというよりは、自主提案してやり始めたということです。そのころは、サービスサイエンスという言葉もまだありませんでした。
  ところが、だんだん世の中が変わってきて、産業の7割を占めている第三次産業の生産性の向上を国が言い出すようになり、文科省も研究予算を付けるという話になってきた。私がやっていた方向に多くの企業も動き出して、それで昨年7月に、「大阪ガス行動観察研究所」まで作ることになったんですね。

──研究所では、社外の仕事も受けている?

  行動観察研究所自体は外の仕事は受けていません。大阪ガスグループ内の仕事をやっています。大阪ガスのお客様というのは「ガスを使っているところ」ですから、ホテル、飲食業、あるいは銭湯もそうですが、そういうところの業務改善を通して関係を深めるという方向で、今動き出しているところです。もちろん、研究所ですから、行動観察のノウハウの開発やフィールドの開拓が、主な役割ですが。
  外の仕事に関しては、実は2005年から「エルネット」という大阪ガスグループが100%出資している会社で始めています。200人のLC(ライブリー・コラボレーター)さんという主婦組織を持っていまして、1人のLCさんが、さらに100人の主婦のネットワークを持っている組織です。社外の仕事は、私も「エルネット」として動いているんですね。
  ところが、仕事を始めた途端にクライアントが付きました。ですから、社外で認められて社内でも認められるようになったというのが順番です。最近は、東京の企業も含め、依頼が倍々で増えてきています。

──どういう依頼が多いのでしょうか。

  大きく二つに分けられます。一つは、サービス業であれ、メーカーであれ、いろいろな現場の生産性を上げてほしいという依頼です。飲食店の厨房の効率化やホテルマンが顧客の名前を覚える仕組みを分析するのも、ある種の生産性向上の提案です。
  もう一つは、付加価値の向上です。製品開発もそうですし、サービス業でお店に来てもらうのに何を売りにするかというのも付加価値の向上です。

観察で重要なのは信頼関係作り

──最初に取り組まれた行動観察は、やはり生産性の向上がテーマだったのですか。

  最初は主婦でしたね。主婦が調理をどうやっているかというアンケート調査は、山ほどあるのですが、実態はどうなっているんだろうと見に行ったのです。夕食の支度をする時間に家に行って、どういうふうに調理しているか観察し、ビデオ撮影やインタビューさせてもらったりしました。そうしたら、これまでのアンケート調査で出てこなかったようなニーズがいっぱい出てきた。「これは使えるぞ」と思ったんです。それが、帰国後の最初のプロジェクトです。

──調査対象者をどうやって探すのですか。

  そこが「エルネット」の強みで、知人の多い人たちの主婦ネットワークを持っていますから、対象者を探すのにほとんど苦労はしないんです。この製品を2週間前に買ったことがある人というような、厳しい条件でも探してくれますね。

──家庭に突然訪問して、観察するわけですか。

  知らない人がいきなり家に来たら、向こうも緊張して普段通りの行動ができなくなります。一般のエスノグラフィーもそうなんですが、対象者といかに信頼関係を作るかが非常に大事なんです。だんだん信頼関係を作るのがうまくなってくると、だいたい「夕飯食べていって」という状態になる(笑)。

──そういう信頼関係は、どうやって築くのでしょう。

  最初に調査目的をはっきり言ってしまうんです。「主婦は大変ですよね。家事もしなければいけない。子育てもしなければいけない。家事は完璧にやって当たり前で、誰もほめてくれない。手を抜けば、すぐ何か言われる。その家事を改善するためのヒントを探しにきました。本当に教えてほしいんです」と、正直に目的を最初に言ってしまうんです。主婦は、主婦の専門家です。こちらは、何もわかっていない。だから、教えてください、弟子入りさせてくださいというスタンスなんです。

──調査は、目的を隠すのが当たり前と思っていたのですが。

  なぜ目的を告げるかというと、観察は仮説を検証するためにやるのではなく、仮説を出すためにやるからです。もちろん、はじめに仮説があって、それを検証するための調査だったら、仮説がバレることには問題があります。しかし、われわれは課題は何か、問題は何かを探すために観察を行っている。だから、目的を最初に言っても問題ないのです。

──仮説を持って観察に臨むことも、いけない?

  仮説を持つと、それが観察のバイアスになってしまいます。やはり、人間は自分の都合のいいように物事を見る傾向がありますから、無意識に仮説に合致することだけを集めたり、逆に、それ以外のものを無視してしまう。ただ、観点を持つことはかまわない。「主婦はどれぐらい忙しいんだろう」という観点を持つことはいいですが、最初から「これぐらい忙しいはずだ」という姿勢で臨むと仮説になってしまう。そこが難しいんですね。

──グループインタビューでは、観察と同じような結果は得られないのでしょうか。

  グループインタビューも、仮説があって、それを検証するのには非常に有効なのですが、仮説を出すという意味では限界があります。当たり前ですが、参加者は自分の頭の中にあることしかしゃべれない。観察は、本人が気づいていない無意識の行動まで見られるということです。
  以前、主婦が調理するところを観察していて気づいたのは、調理しながら頻繁に時計を見ることです。あとで本人に確かめたら、「えっ、そんなに見てました?」と、自分で気づいていなかった。子どもがそろそろ帰ってくる時間だ、洗濯物を取り込む時間だと、いろいろなことを気にして、主婦は調理している。そういうことは、アンケート調査やグループインタビューからは出てこないんですね。

観察の邪魔になる常識

──観察するサンプル数は何人ぐらいなのですか。

  10人弱です。仮説を出すためなので、数というよりは、一人ひとりを深く掘る。そうすると、例えばソリューションが出てきたときに、「山田さんと鈴木さんだったら、これは絶対喜ぶ」ということが、顔が見えているので自然にわかるのです。

──エスノグラフィーでは、調査対象に「エクストリーム(極端)ユーザー」を選ぶとよく言われていますが。

  普通の人は、やはり、行動が予想の範囲に収まってしまう。そういう人よりも、エクストリームな人を見たほうが、差が見えやすくなるということです。例えば、調理だったら、ものすごく凝った料理を作る人と、めちゃくちゃスピーディーに料理をする人を見たほうが、いろいろと差も見えるし、比較もできる。“気づき”が得られやすくなるのです。飲食店なら、よくお客の入るお店とそうじゃないお店を比較する。営業ノウハウを抽出するなら、優秀な営業マンと普通の営業マンを比較する。そうすると、優秀な人の特徴が見えてくるわけです。

──観察する人のスキルも重要そうですね。

  皆さんそうですが、人はそれぞれ自分の考え方や価値観をしっかり持っているし、それまでの経験もある。日常生活では、そういうフィルターを通して見た方が、目の前で起こっていることの意味をいちいち考えなくていいし、楽なんです。しかし、これが観察するときは邪魔になる。
  例えば、レストランの接客を観察する時などは、初めてレストランで食べるというぐらいの感じで見ないと、いろんなことを見落としてしまう。だから、よく言うのは、子どもが初めて海外旅行に行った時のような気持ちで観察しろということです。何でも不思議に面白く思えないと、いろいろなことに気づけないんですね。ただ、言うのは簡単ですけど、それができるようになるには、かなりの訓練が必要です。

──研究所やエルネットには、そういうスタッフがいる?

  プログラムを作って、期間をかけて養成しています。人間がものを見る時、どういうところでバイアスがかかりやすいかを、最初に教えています。実際にバイアスがかかるような事例をビデオで見せて、「わからなかったでしょう」「ここを見落としたでしょう」と指摘して、訓練していく。今研究所にいる7人はそういう訓練を受けていますし、エルネットにも訓練を受けた観察専門のスタッフが十数人育っています。

──観察と分析は、担当が別なのでしょうか。

  一緒です。観察して、分析して、リポートにまとめるまでを1人がメーンになって担当します。それから、ソリューション案を出す段階で5、6人のスタッフが集まって、観察した結果を、ビデオなどを見ながら話し合うという形です。その段階で、最初に言った人間に関するいろいろな知見を生かしながら解釈を試みるわけです。そして、対象の行動を構造的に解釈していく。根拠があって導きだしているソリューションなので、それほど外れることはないんです。

ノウハウを「見える化」する

観察とインタビューで優秀なホテルマンのノウハウを“見える化”

観察とインタビューで優秀なホテルマンのノウハウを“見える化”

──依頼が多いという生産性の向上では、どんな事例があるのでしょうか。

  面白い事例としては、大阪のリーガロイヤルホテルが、優秀なホテルマンのノウハウを若手のホテルマンと共有したいということで、取り組んだものがありますね。
  リーガロイヤルホテルに5000人のお客様の顔、名前、会社名、車の車種とそのナンバーを全部覚えている人がいます。本当にすごい人で、お客様がマスクをしていて、ほとんど顔がわからなくても、「あっ、山田様、お風邪ですか」とわかるんです。3年ぶりにホテルに来られたお客様でも名前をお呼びできる、とのことでした。それから、車のナンバーも覚えていますから、車が入ってくると、インカムで「何々会社の何々様がいらっしゃいました」と伝えるんですよ。
  記憶に関するこれまでの心理学的な知見を整理すると二十数件あります。観察やインタビューでわかったのは、そのホテルマンは心理学を専門的に勉強されたわけではないのですが、そのすべての内容を実施されていました。経験的に理にかなったことをやっていたのです。

──どうやって覚えているんですか。

  実は、顔と名前はセットで覚えにくいんです。顔は覚えていても名前が出てこないという経験は多いと思うのですが、それは名前が単なる記号だからです。ところが、このホテルマンは、会社名をヒントにしてお客様を覚えているんです。つまり、会社にはストーリーがある。例えば、大阪ガスに勤めているとしたら、具体的なイメージが浮かぶ。このホテルマンは、お客様を「この人はこういう仕事をしている人」というふうに、まず会社のイメージと結びつけるんです。それから、会社名ごとに名前をリスト化して、今度は会社名と名前を結びつけて記憶を整理する。だから、思い出すときは、「名前、何だったかな?」ではなくて、「この人、何の仕事をしている人だったかな?」とまず思い出して、後は芋づる式に記憶が出てくるという覚え方をしているのです。
  この事例では、記憶のノウハウの「見える化」をやりました。そのノウハウをテキストにしたり、いろいろな人が出てきて名前を覚える練習ができる研修用のビデオも作りました。

観察からしかわからない「価値」

──製品やサービスの付加価値の向上の依頼も多いと、おっしゃっていましたが。

  付加価値には「使用価値」と「経験価値」の二つがあると思っています。
  経済学では、例えば、時計を買った瞬間が一番価値は高くて、使えば使うほどその価値は下がっていきます。つまり、経済学では「交換価値」で商品を評価している。
  われわれは、そうではなくて、商品を使う場面でその商品の価値は最大化すると考えています。つまり、「使用価値」を重視している。例えば、大阪ガスが売っている「ガス」も、気体そのものというよりも、お風呂に入れる、お湯がすぐ出る、料理ができるというところに価値を感じていただいている。そう考えれば、いくらでも新しい価値を生むことはできると考えています。そして、消費者がその商品にどういう価値を感じているかは、観察してみなければわからないことです。
  もう一つの「経験価値」というのは、例えば、先ほど主婦は家事を完璧にこなして当たり前と思われているという話をしましたが、調理をしながら、ビールを飲んでいる主婦がいました。理由を聞いたら、「これだけ家事をがんばっているのに、誰もほめてくれない。だから、自分へのごほうびをあげている」と言うんですね。この主婦は、単に「のどをうるおす」という効用だけでなく、「自分に価値がある」と感じさせてくれるものとして考えているわけです。この「経験価値」も、消費者を観察してみなければわからないことです。
  こうした「使用価値」や「経験価値」は、主婦を観察する中から、いくらでも出てくる。そういう観点が今後もっと大事になるのではないかと思うんです。

──ただ、「行動観察」を一般の企業が独自で実施するのは難しそうですね。

  素で観察できるか、それから人間観察に関する知見をどれだけ持っているかが大事ですから、難しいとは思いますね。私も、観察のノウハウを教えてくれとよく言われるのですが、自分自身で気づかないことが多い。一緒にやっている研究所のメンバーから「松波さんはこうやっているよ」と教えてもらってはじめて、自覚することも多い。実は、研究所のメンバーもスキルが上がって、最近は僕が観察されている。それで、自分にも新しい気づきが得られるんですね。