経済カフェテラス

2008.11/vol.11-No.8


「ぼんやりした不安」の時代 経済先行きに希望の光は?

経済カフェテラス

 経済とは、もとをただせば極めて単純なルールで動いていると言ってもよい。銀行の調査部にいた頃、何が起こると株価が上がるのか、下がるのか、為替はどういう要因でどう上がり、下がるのかということはいちいち頭で考えずに、まずはそういうものだと感覚的に覚えてしまえ、と言われた記憶がある。急に起こったように思える事象も、理論的にはあり得るだろうと、もともと予見されていたリスクの一つである場合がほとんどだ。

文学が映し出す「不安」

 「文学」は「経済」とは対極にある分野のように思われる。詩歌などは、受け取る側がそれぞれの解釈をすることが許される。しかしどちらも「人間の行動や心理」をあつかっている点では同じであり、お互いを映し出す鏡のようなところもある。
 たとえば、ここ最近でいえば、小林多喜二の「蟹工船」のブームである。世代的にはより近いはずの私が読んでもすでに実感をともなわない、遠い昔の日本のことのように思える蟹工船の労働者たちの物語を、若者たちが親近感をもって読むという。ただし、もし小林多喜二が現代に生き返っても、この若者たちと意気投合して話がはずむとは思えない。政治や経済政策に期待感を喪失した結果、文学の世界へと不安のはけ口と将来の光を求めているように思える。
 経済的にはしばらく「不安な時代」が続きそうだ。
 私は、今の日本の不安は「ぼんやりとした不安」だと思う。「将来に対する唯ぼんやりした不安」という言葉を残して自らこの世を去ったのは芥川龍之介だった。
 「ぼんやりとした不安」とは、行灯が遠くで光っているように、光源の所在、つまりどこに問題があるかは見えているのだが、その光のとどく範囲が朧げなのである。自分の身辺のどこまでその影響が及ぶのか、及ばないのか、それはそのままぼんやりとした不安になる。

イラスト

タイトルカット&イラスト・谷山彩子

金融危機で責任放棄が露呈

 不安の種はいろいろあるが、アメリカのサブプライムローンの問題はどんどん深刻になってくる。どこまで行き着くのだろうか。
 それ自体の問題の大きさもさることながら、最初に提出された金融危機対策のための法案が、どんでん返しでアメリカの下院で否決されたことはショックだった(修正案は可決されたが)。「銀行だけをなぜ救う」という今回のアメリカの議論はかつての日本でもあった。しかし、アメリカ経済はアメリカ人だけのものではない。だからこそ、自国経済安定のための保険のような意味合いで、日本を含む諸外国が、ドルの安定や双子の赤字の緩和のために講じてきた施策も少なくはない。ここにきて、アメリカはその世界経済のリーダーとしての責任を放棄したのかという失望感はそのまま今後の世界経済の舵取りへの不安に重なる。
 サブプライム問題は日本にも深刻な影響が及ぶことは間違いない。しかし、週末の繁華街は、相変わらず、大勢の酔客でにぎわっている。それをまた不安の材料としてしまうのは考えすぎか。今、「家庭で手軽につくれる酒のつまみ集」の類が売れているそうだ。案外、庶民はしっかりと自己防衛の策を本能的にとりつつあるのかもしれないが。
 もう一つの不安の種は、人間社会への不信感である。事故米の問題では、巧妙な取引スキームをつくり事故米を食用米として販売するなど、同じ人間として信じられない。これもまた、アメリカ同様、自分さえよければ構わないということか。しかも、そのことを糸口に農水省の職員の国民の食を守るという仕事への責任感、公務員としてのモラルに大きなほころびが生じていることが露呈した。年金問題にいたっては、憤りを通り越し、あきれ果てるばかりだ。
 もちろん、こうした組織にいるすべての人がそうだ、というわけではない。日本全体が浄化機能を失っていることが問題だ。今の日本は「悪貨と良貨が上手にすみわける」状態だ。そんな器用さと居心地のよさを日本の良識層は学び、受け入れてしまったのではないだろうか。だから同じような問題が後を絶たない。

ぼんやり光る商品の出現

 しかし、この「ぼんやり」も暗いイメージばかりではない。最近では高齢化社会の新商品開発のキーワードにもなっている。
 リズム時計では、ぼんやり光る時計を発売した。NHKの「ラジオ深夜便」は「夜中に目が覚める」という高齢者のニーズに見事にこたえたが、このぼんやり光る時計は、「夜中に暗闇でぼんやり何時かわかる」ということが重要なのだそうだ。いま何時か知りたい、しかし小さな時計では文字盤が見えにくい、大きな文字盤がはっきり光っていたのでは気になって眠れない、だからぼんやりでいい、という声にこたえたものである。
 トイレの便器には、暗闇で便器の中がLEDでぼんやり光るというものもある。イナックスの人気商品の一つだ。夜中にトイレに起きたとき、勝手知ったる我が家であれば、ましてや寝ぼけ眼であれば、電気をつけずにトイレに歩いていくという人も少なくないだろう。そういう人のために、暗闇で便器が「ここですよ」と教えてくれる。また、この「ぼんやり」には、強い光を見ると寝つきが悪くなるからという高齢者への配慮もあるらしい。
 こうした「優しいぼんやり」はありがたいが、経済の先行きには強い希望の光がほしい。

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