特集

2008.10/vol.11-No.7


新聞広告との「きずな」−時代を切り取る新聞

角田 光代 氏

 読売、朝日、毎日、日経、産経、東京・中日の各紙が発行する情報誌の10月号では「新聞広告との『きずな』」を共通テーマに各界で活躍する人たちにインタビューを行っている。本誌に登場いただいたのは、作家の角田光代さん。読売新聞に掲載された『八日目の蝉』や新聞記事を題材にした『三面記事小説』の著作があるなど、新聞との関わりも深い。「新聞好き」を自任する角田さんから見た新聞と新聞広告の魅力とは?

――角田さんは、いつ頃から新聞を読まれていますか。

 小学校の3、4年生くらいからです。そのころからずっと読売新聞を読んでいるのですが、まだ小学生でしたから政治面や経済面はよくわからない。それで、「人生案内」をよく読んでいました。今でもよく読みます。

――「人生案内」は、別の意味で小学生にはむずかしい気もしますが(笑)。

 意外とそうでもないんです。高校生から高齢の方までいろんな年代の人の相談が載っていて、人って意外な理由で悩んでいるんだなと、そのころからすごく興味を持って読んでいました。

時代の空気を映し出すメディア

――新聞記事を題材にした短編小説集『三面記事小説』も、日ごろ新聞を読んでいることがヒントになったのですか。

 4、5年前に、ある編集者から永井龍男の作品で昭和の三面記事を題材にした短編集があると聞いていたんです。それがずっと頭に残っていて、文藝春秋から連載のお話をいただいた時に、その平成版というのはおこがましいですが、やってみようと思ったんですね。
 新聞は、その日その日のことを活字で切り取っている。時代の空気を映し出す媒体だと思うんです。最近は、陰惨な事件も含めて、あまりにも意味のわからない事件が多いですよね。そういう事件に対して特にテレビなどのマスコミは、「心の闇」など紋切り型の言葉で簡単に片付けてしまうことが多い。それが不満だったんですね。テレビを見ていると、解釈があまりにも一つで、しかも、その解釈を押しつけてくる。これを信じちゃいけないなと思いながら、つい見ちゃうんですけど(笑)。
 しかし、犯罪者は私たちと違う種類の人間ではおそらくないし、心の闇は彼らだけが持っているものではない。事件を起こした人は、何かがどこかで捻れただけだと思うんです。この小説では、そういう人間の心理を描きたかったんです。

――自分でも事件を取材されたのですか。

 実際の事件を題材にしていますが、執筆にあたっては、ほとんど取材はしませんでした。というのも、取材に基づいたドキュメンタリーを書きたかったわけではなく、あくまで人間の心理を描きたかったからで、ほぼ100%想像力に頼って書いています。
 もちろん、事件を興味本位に露悪的に扱っていると思われるかもしれないという不安も当然ありました。この小説を世に出すことで、被害者の家族など傷つく人もいるかもしれない。執筆当初、編集者とこの小説の目的を何度も確認し合いました。
 その目的というのは、三面記事を使って今の時代を切り取り、50、60年後の人たちが今の時代を知る手がかりにしたかったということです。だからこの本は、もちろん表現にも細心の注意は払いましたが、非難されても出すべきだと思ったんですね。

新聞は読者に近い存在

――読売新聞の夕刊に連載された『八日目の蝉』は、角田さんの初めての新聞小説ですね。

 それまで月刊誌の連載はありましたが、週刊誌の連載もしたことはありませんでした。それが、いきなり日刊紙の連載で、毎日締め切りに追われて、一日ってこんなに早いのかと驚きましたね(笑)。新聞は毎日家庭に届けられるものですが、新聞小説も物語の一部が、毎日少しずつ届けられます。毎日、読んでもらえるように、いかに読者を惹き付けるか、という点にも頭を悩ませました。
 「新聞はすごい」と一番実感したのは、読者からの反響の大きさです。連載中にサイン会を開けば、「夕刊読んでます」と言ってくれる方がいたり、葉書や手紙も単行本や月刊誌でもらう量とは比較にならないくらい多かったですね。新聞はこんなに多くの人たちに読まれているんだと、改めて怖いと思いました。
 新聞小説の連載を通じて感じたのは、新聞は読者にとても近い存在だということです。投書した人は、たぶん自分が思ったことを書けば確実に作者の手元に届くと思っている。そして、実際、投書をもらった私自身もうれしくて泣いたりしている。そういう書き手と読者の深い信頼関係がある媒体というのは、新聞以外にはおそらくないと思いますね。わかり合えるとまで言っては大げさですが、少なくとも自分の思いや気持ちが新聞社やその記事の書き手に届くことを読者は信じている。
 実はそういう人間の基本的な信頼感や思いの強さは『八日目の蝉』のテーマにもなっていて、新聞小説だからこそ深められたテーマだと思っています。

新聞広告は親戚のおばさん

――ところで、新聞広告はご覧になりますか。

 見ますね。私はテレビもインターネットもあまり見ない方なので、新聞広告に教えられることが多いんです。企業広告をはじめ、通販やパック旅行などいろいろな広告がありますが、新聞に掲載されているだけで、何か信頼できるものに感じてしまいますね。中でも、思わず見てしまうのは食品のお取り寄せの広告で、以前、北海道産のアスパラガスの広告を見て買いました(笑)。

――新聞広告は身近な情報源になっている?

 もちろん、記事と広告は別だという認識はあるのですが、例えるなら、新聞広告は私にとって、困ったときに頼りになる親戚のおばさんみたいな存在ですね(笑)。ネットが出てきたことで、今は情報が世の中にあふれている。かえって何を選んでいいのかわからない状態になっていると思うのです。新聞は馴染み深い媒体だから、そういう時に信用できるんです。
 それから、やはり書籍広告は見ますね。今どんな本が出ているんだろうとか、記事より熟読しますし、広告を見て本を買いに行くこともよくあります。書評欄ももちろん読みますが、出版関係の広告は、それが広告だからおもしろいところがある。書籍広告がなかったら私の新聞の楽しみは半減しますね。

――最近はネット書店の読者レビューを参考にして本を買う人も多いようですが、書き手の立場から見てどうですか。

 読者レビューを読むことはありますが、あまり信用していません。大げさな言い方かもしれませんが、プロの書評家は自分の命を削って、その本を批評している。本を読んで、「面白かった」「つまらなかった」と感想を書くことは自由なことだし、いいことだとは思いますが、匿名で書かれた書評を私は信用していません。本を買う時も、読者レビューで購入を左右されることはないですね。
 インターネットも調べなければならないことがある時は使いますが、紙とは肌触りが違うんです。例えば、ネットの情報はコピーやペーストができる加工しやすい情報です。一方、新聞の情報は、そういった融通が利きません。でも、その融通の利かなさがあるから、紙面のこのあたりにこんな記事があったとか、情報を情景として記憶していける。そういう紙の媒体が私は好きですね。

活字メディアに必要なのは信頼

――「活字離れ」については、どう思いますか。

 そうは思わないですね。電車に乗って周りを見れば、携帯を見ている人も多いですが、文庫本を読んでいる人もけっこういる。出版社から見れば本が売れていないということになるのでしょうが、一人が読んでいる量はそれほど変わっていないと思います。ただ、昔の本が読まれなくなったとか、読まれる本とそうではない本に差が出てきたことは感じています。

――以前とは、読まれる本の傾向が変わってきた?

 例えば小説も、ここ20年くらいで求められるものが変わってきたと思います。バブル以降の不景気が関係していると思うのですが、明るいもの、人の気持ちを癒やすものばかりが良しとされ、実際に売れる小説も、そういう作品が多くなっています。ストーリーも非常にシンプルでわかりやすく、単純に泣けるとか、感動できるものが小説に求められている。
 別にそれを否定しているわけではなく、泣くことも、癒やされたいと思う気持ちも人間の大事な感情ですし、時代が求めているものだからいいとは思うのです。ただ、読者が小説に求めるものがそれだけになってしまって、編集者も作家もそればかりを目指してしまったら、人間の多様な感情は退化してしまう気がするんです。人間には不安もあれば、心の葛藤も、ずるさもある。そういういろいろな気持ちに心を動かされるのが小説のおもしろさだと思うんです。
 そういう問題はありますが、決して活字が読まれなくなったわけではないし、紙媒体が信用を失ったわけではない。私は記事と同じくらい熱心に新聞広告を読んでいるので、これからもわかりやすくて、それが信用に足るものであり続けてほしいですね。

八日目の蝉(中央公論新社刊)
三面記事小説(文藝春秋刊)

Mitsuyo Kakuta

 1967年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。90年『幸福な遊戯』で「海燕」新人文学賞、96年『まどろむ夜のUFO』で野間文芸新人賞、98年『ぼくはきみのおにいさん』で坪田譲治文学賞、『キッドナップ・ツアー』で99年産経児童出版文化賞フジテレビ賞、00年路傍の石文学賞を受賞、03年『空中庭園』で婦人公論文芸賞等を経て、05年『対岸の彼女』で直木賞受賞、06年「ロック母」で川端康成文学賞を受賞。ほかにも『人生ベストテン』『ドラママチ』『薄闇シルエット』など著書多数。読売新聞の読書委員も歴任。


もどる