Creativeが生まれる場所

2008.6/vol.11-No.3


受け手の“気持ち”を理解し ベネフィットを約束

山本 高史氏

1961年京都生まれ。大阪大学卒業後、電通入社。コピーライター、クリエイティブディレクターとして、トヨタ自動車“カローラ”“カローラフィルダー”、サントリー“マグナムドライ”などを担当。2006年、電通を退社し、コトバ設立。TCC最高賞、クリエイター・オブ・ザ・イヤー特別賞など受賞歴多数。

 昨年から、オリンパスの新たなキャンペーンが始まった。「ココロとカラダ、にんげんのぜんぶ オリンパス」というキャッチフレーズを掲げ、デジタルカメラ、医療機器である内視鏡をビジュアルに据えている。また俳優の真田広之、女優の宮崎あおいを起用しながらも、匿名性の高い使い方をしている。
 今回の企業広告キャンペーンの考え方や最近の広告が抱える問題について、4月に“「ユニーク」な「アイディア」の「提案」のための「脳内経験」”のサブタイトルで「案本」を出版したクリエイティブディレクター/コピーライターの山本高史氏に話を聞いた。

──昨年始まったオリンパスの企業広告の考え方ですが。

 オリンパスには、デジタルカメラを中心としたイメージング事業と内視鏡を中心とした医療事業の大きな2本の柱があります。
 デジタルカメラの分野では、オリンパスというブランドの認知率は非常に高いのですが、現在デジタルカメラの精密技術は各メーカーで大変進んでいて、差異はあっても一般消費者がそれを見つけることはとても難しい。一方、オリンパスの消化器内視鏡は、一般的にはあまり知られていませんが、世界でのシェアが約7割を占めていて圧倒的に高いのです。これは他社と大きな差別化を図る要素になると考えました。優れた内視鏡を作る技術を持つ企業、そこが作るデジタルカメラ、というところに接点がないかと考えたんですね。

──「ココロとカラダ、にんげんのぜんぶ オリンパス」というキャッチフレーズが接点ということですか。

 前述の二つの事業はなかなか相容れないものです。なぜならユーザー、つまり受け手がこの二つと接する時の気分は全く異なるものです。楽しい時に使うデジタルカメラ、病気の検査に役立つ内視鏡では明らかにユーザーの気分は違いますよね。
 キャッチフレーズに「ココロとカラダ」とありますが、この二つは人間が前向きに生きるための両輪のようなもので、密接にかかわるものです。心が健康じゃなければ身体は動かない、また身体が健康じゃなければ心がいくら前向きでもやはり動かない。心と身体がかみ合って、人間は前向きに生きていける、という認識で表現を考えています。つまり心と身体に、明快なベネフィットを与えるオリンパスという企業は、他社とは明らかに違う価値を持っている、という発想なんですね。
 ブランディングというものは、企業がその価値を保証しながら、それを継続、発展させてゆくものであり、他社とは違う旗を立てるということです。つまり差別化しなければならない。自分の固有の価値を持つというのが、ブランディングの重要なポイントです。

4月16日 朝刊
4月17日 朝刊

「弱っている人」を念頭に

──広告では俳優の真田広之、宮崎あおいを起用していますが、「47歳・男」「22歳・女」として、匿名性の高い起用の仕方ですね。

 こうすることで受け手も感情移入しやすくなると思うのです。真田さん、宮崎さんの話として展開すると、広告がお二人の話になってしまうんですね。「47歳・男」とすれば、自分の体力の衰えや妻や子供のこと、あるいは検査の結果など、だいたい40代の男性は多かれ少なかれ実感すると思うのです。そういう受け手に切実な状況を想起させるように、コピーも受け手側の気持ちに立った表現をしています。

──40代の男性ということですが、山本さん自身の心情を吐露しているわけではない?

案本 (インプレスジャパン刊)  「案本」にも書きましたが、経験データベースに基づく、まったくのフィクションです(笑)。
 僕は広告を考える時、人間は全員弱っている、不幸であると仮定するところから発想します。新商品がマーケットに出て行く時、広告ではその商品は「既存のものとほぼ同じです」なんて言わないですよね。「既存のものより上です」と声高に言うのが広告です。「これを持てば、今までできなかったことができるようになる」「より幸せになる」というベネフィットを約束しながら世の中に出て行くわけです。つまり、今まで相対的に不幸だった人にベネフィットを約束することが広告の一番の、唯一の価値です。逆に言えば、広告は「満足し切っている人」には効かないのですね。
 僕は、これまでいろいろな企業コミュニケーションに携わってきましたが、広告を作り始める前にクライアントにいつも「どう思われたいですか?」と聞いています。なぜかというと、送り手である企業は、自社のデータや実態が分かっているから、自分たちが具体的な存在として受け手に理解されていると思ってしまいます。しかし実際、受け手は企業のことを考える時、そういった実態ではなく、好き、嫌いというような“気分”で考えているものです。送り手はついつい自分たちの言いたいことばかりを、例えば商品のスペックのことばかり自慢してしまいます。しかし、それは嫌みな話になりがちで、有効なコミュニケーションにはなりません。だから僕は「どのように見られたいか」を聞いて、受け手がどんな気分になるかを考えながら表現を作っていきます。

知的クラスメディアの新聞

──最近ではマス広告が効かなくなっている、などの声も聞かれます。

 確かにそういった声が聞かれますね。僕は新聞は「知的クラスメディア」として考えた方がいいと思います。テレビなどと違い、新聞は受け手が能動的に情報を取りに行く媒体です。そういう知的な読み手の想像力をかき立てるような広告を制作していかなくてはいけないと思っています。つまり、広告がきっかけとなって、自分にとって切実な場面や状況を考えるきっかけになるようなものが、新聞広告のとるべき理想形の一つだと思うのです。
 最近の広告全般を見ていて思うのですが、「受け手をバカにしているのではないか」と感じられる表現がしばしば見受けられます。広告に触れて「俺はこう思う」「最近、こういうこと多いな」といった受け手の想像力や知性を刺激することなく、ただ面白いだけだったり、スペックを伝えるだけになっています。しかし、それではいけない。受け手の知性や想像力を信じないと広告は痩せていきます。
 今の時代は曖昧な言葉と投げっぱなしの言葉でコミュニケーション不全に陥っていると思うんです。議論もかみ合わないし、話し合いも成り立たない状況になりつつある。今、世の中は「あの人の約束は信じられない」ではなく、「言葉自体が信用できない」というところまできている気がします。世の中が約束しない方向に向かっている気がしてなりません。約束するとあとで責められる可能性があるからです。この状況が広告の世界にも起こっている。
 僕は、受け手に「言葉」で約束をしながら正確に物事を伝えるような広告を作っていきたいですし、広告はそうあるべきだと思っています。そして、それをできるのが新聞というメディアだと思っています。

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