こちら宣伝倶楽部 2007.7・8/vol.10-No.4・5

伝え わからせる広告「活字メディア」の決起

イラスト 広告費、06年のまとめはネット広告が急伸して、次の発表ではラジオに次いで雑誌を抜くのは確実といわれる。当該メディアは一大事かもしれぬが、広告主にとっては抜こうが抜かれようがどうでもよいことで、むしろやっと五媒体の新時代が始まり、広告がもっと多彩におもしろくなる可能性がある。そのことを先に考えることが大事だ。それにしても抜かれるといわれているのに雑誌はなぜ慌てないのか、思いきった手を打ってせまってこないのかと思う。

「広告」でなく「狭告」の時代へ

 若者の活字ばなれ、文字ばなれと世論は簡単にきめつける。これは早計すぎる誤解だ。例えば携帯電話、耳に当てて「話す」という電話本来の使い方より、開けてながめて「読む」という行為の方が多いように見える。メールという携帯電話の機能であり、付加機能が本来機能にかわりつつある。このことはパソコンの場合も同じで、始業時のオフィスの不気味な静寂は、たまったメールを「読む」という行為が大半を占め、ブログなどができると「読むメディア」はむしろ元気な主流になっていく気配もある。
 携帯電話で小説を書き、それを読む同世代が出版社にその出版を動機づけ、ついにそれがベストセラーのコーナーに並ぶ。それを小説と呼ぶには問題があるとはいえ、まったく新しい読み人を作っていることは見逃せない。
 ただひとつ気にしておきたいのはメディアの機能、マスでパブリックにかわって、多分に私的っぽいパーソナルなメディアの評価が浮上することが予想される。「あなたがた」に伝えるのではなく「あなた」に伝えるという感覚になり、コミュニケーションは大声で届けるより、小声で伝わるものにむしろ魅力がでるようになる。「広告」でなく「狭告」という感覚だ。新聞広告などは作り方にひとひねり必要になる可能性はある。これはひとつの気づきだ。
 パーソナルな伝達、陰か陽かといわれればやや陰なイメージがあり、「深く」伝わるかも知れぬが「広く」は伝わりにくい印象を持つ。メディアにはある種の「派手さ」が必要だ。新聞は雑誌のようにターゲットを細分化し、多種多様な展開をするメディアではない。だから少しマニアックな特定情報を普及させようとすると、地域や曜日、朝夕の別のほか、特集や掲載面、記事との関連など考慮にいれ、計算しつくして広告のスペースを確保するというような工夫が必要になってくる。新しい協力が求められる。

「メディアの信用」と「広告の信頼」

 広告主、とくにメーカーの「ものづくり」と「ものさばき」の姿勢についての責任が問われている。当たり前のことだが改めてそのことを問われなおすような事件や事故が続く。メーカーらしくきちんと恥じない商品をつくること。我さきにといわんばかりの品性のない商売で、業界の秩序を乱すようなこともしないこと。ディスカウント、安売りの海の中に業界全体を引きずりこんだのには、必ず火をつけて習慣化させた企業がある。安いには安いだけの理由のあるものづくりを普及させてきた背景もある。業界に迷惑をかけない商売を忘れてはいけない。
 とばっちりもある。例えば特定テレビ局の看板番組のねつ造が露呈すると、ひとは他のテレビ局も軒なみにそうだろうと思いがちだし、「放送業界に迷惑をかけた」と謝罪すれば、考え違いするな、これはテレビだけの信用問題ではない。マスメディア全体の不信につながることであり、それらに広告主として広告を投入している広告主の「広告」そのものに不信感をもたらせるたねをまいたことをわかるべきだ。今度のことでテレビ広告にウエートをかけすぎることの反省や見直しを考えている広告主は少なくない。広告主というより良識ある企業としての理性がそのことに気づかせたからだ。
 少し整理してみる。「読むメディア」を各社のコミュニケーション計画の中で重視してみようということ。企業には改めて伝えなおさねばならぬことがあるということ。広告で伝えたつもりになっていたことが、案外伝わっていないのではないかということ。メディアはマスに意味があるのではなく、接する相手との距離感や仲間感情に意味があるようになってきたこと。メーカーも信頼をとり戻したり、キープしたりすることが大事だが、広告のステージたるメディアの毅然たる姿勢も大きく問われるようになった。久しぶりの場面転換でシーンがかわる。

「読ませるメディア」の時代

 会社の品格や品性が問われる時代になってきた。いろいろなことが一巡してボロや歪みがでつくしたところで、いったんきれいに整地して新しい家を建てなおすという感覚だ。
 広告では「売る」ということより、ていねいにわかりやすく「伝えなおす」ということに重点をおくこと。せっかくのストーリーや誇らしいことはきちんとアピールすることの大事さを尊重すべきだし、実は消費・生活者はそのことに関心が高いということに気づくことだ。
 企業発の広告メッセージの中に、その社、そのブランドのバックボーンにあることを知ろうとする人がいる。単純なメッセージだけではそのことは伝わらないし、ウケねらいの瞬間芸みたいな、クリエイティブ遊びの広告にはほとんどの場合そのパワーはない。広告は読切小説のように考えるのではなく、長期の連載小説のように、まずは広告主が全体のストーリーをきめ、ヤマ場やハイライトシーンをちりばめ、読む人を引きずりこむドラマ仕立ての組みたてがいる。
 冒頭で「読むメディア」の時代といったが、興味や関心のないものはやはり読まれない。読む前の動作がそこまでいかない。しかし知りたいこと、わかりたいことに出会うとほとんどの場合「これでは足りない」と思うくらい、本来は広告に求められていることは多い。だから売り場や店頭のパンフレットをとりに行き、ネットで納得のデータを探すのだ。15秒のCMはお囃子か合いの手かBGMであり、かんじんの芝居は「読んでわからせるメディア」で、きちんと伝えていくのが広告の王道だ。
 企業が公共的視点を持った広告も、いまの市場は好感をもって迎える。その広告がしらけないような企業活動が、通常の営業活動とは別に展開されていることが条件、企業は広告を通してひとつずつおとなになること。ブランドの品性もけたたましいだけの広告ではできない。テレビはよい時に問題提起をしてくれたと思う。

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