こちら宣伝倶楽部 2006.3/vol.8-No.12

手あかにまみれた広告の手づくり感覚を
イラスト 少しずつ微妙な反応がでてきたと内心「チャンス到来」に思っていることがある。コンピューター過信による弊害というか、強いはずのものが意外に弱くてもろいということ、たよりすぎると平凡になっていくことへの人々の気づきである。知人のシンバシ・ショウジさんの通帳にある日突然1億円の振り込みがあった。銀行へ飛んで行ったらシンバシ・ショウジという会社への振り込みミスだった。いずれも仮名だが実話で窓口では「間違いでした」で、係員は少しもあわてずシンバシさんの通帳に修正印を押した。

きれいだけどおいしくない料理

 シンバシさんは、この「窓口は少しもあわてず」にびっくりした。もしシンバシさんがずっとだまっていたらどうなったのか、これは酒飲み話としては結構おもしろくて盛りあがる。
 この種の事件、一連の名簿流出や個人情報の漏洩、出国寸前の航空券手配ミス、パート社員による億単位の横領、生徒の成績データを紛失というより飲みに行くのに持ち歩く先生など、以前はなかったようなミスが増えている。その最たる事件は、例の「1円で61万株売り」というわずか13分で400億円の誤発注損害を出した事件だ。株数と金額を逆入力しただけのミスは東証のシステムにも問題があり、社長は辞任し損害の負担配分におよぶ。ケースによってはコンピューターのメーカーにまで責任がひろがる場合もあったに違いない。大手広告会社が01年秋に上場した時にも、同様に「16円で61万株売り」とし、証券会社が大損した例がある。まさに小手先どころか小指先で仕事をするのがあたり前になった報いである。人のせいでなく機械のせいにする風潮もおかしい。
 いつのまにか顧客の名前も先のシンバシさんのようにカタカナで表示し、DMなども平気でそれでよこす不自然に気づかず、そのくせ顧客目線の経営、お客様第一を標榜する会社が増えている。若い人に宿題や課題を出すと、必ずといってよいほどパソコンに向かう。そして出てくるリポートやミニ論文はデータ豊富、仕上げきれいだが記述した本人の考えや意見、洞察がどこにもない。きれいな器に立派な料理が並ぶが少しもおいしくない、そういう仕事をする名人たちをどんどん増やしている。そのへんのことを読まぬと「かしこい優秀なスタッフが増えて喜ばしい。やはり若い奴はたのもしい」などという錯覚に酔ってしまったりする。広告をつくる仕事にもこの問題で深刻になってくる。

おもてに出たがる黒子たち

 例のCM飛ばしも便利になりすぎたハードがもたらしたものだし、マンション単位での共同ITは有線放送やインターネットの格安共同化をすすめ、ついにはサーバーを設置してリモコンで番組の録画予約、構内情報通信網経由で好きなときに見られるシステムまで考え出され、テレビ局は後手に回ってあせっている。考えてみれば視聴率だってコンピューターによる便利・便益であると同時に、立場によっては不便な厄介ものになっている。質の数値化はまだまだ未解決で、各種の広告やCMコンクールも主としてクリエイティブ技術だけを評価する制作社と制作者のための催事になっている傾向が強い。だからスター・クリエイターなどと本来は黒子でいるべきがおもてにでてしまったりしているし、そればかりに関心の高い広告主と広告担当者を増やしている。広告主としての思慮が浅く、こだわりのポイントがずれたまま広告計画をすすめていったりし、広告本来の質やオリジナリティーを不完全にしたまま、制作者に仕事を投げてしまう迷惑にも気づかないでいる。
 ちょっと話をもどす。広告を「機械発想」から「手づくり感覚」にもどしてはどうか。コンピューターを使ったデザインは、前述の例でいうと「きれいな器に立派な料理」が並び「おいしそうに見えるが食べるとおいしくない料理」になっていないかということ。器や盛りつけや供するテーブルウエアなどが料理だと勘ちがいしたままになっていないかということだ。写真にいたっては不可能を可能にする技術が発達し、ついには報道写真にまで合成されたうそを掲載してしまった例がある。ニュースが作品化されるとメディア本来の役割がおかしくなり、同一場面にでる広告の信頼性にまで関係してくる。
 人知の関与度を少なくした、高精度になりすぎた広告は、多くの人を感動させる力を失っていく。そのことに早く気づかねばならない。

広告をていねいに作ること

 イラストレーションの力について、特に新聞広告などプリント・メディアでは考えなおすときがきている。紅茶メーカーの広告に中原淳一の女性画がでたとき、その強さと鮮烈さに目をみはった。航空会社が月に一度くらい出す全5段のカラー・イラストの広告は、毎回手にとってゆっくり見て、ファイルするようになった。
 アーティスティックなイラストレーターの発掘と育成が急がれる。ブランド・イメージに大きく響く、個性的で上質の絵がかける、手づくり感覚の広告の柱になるアーティストとの巡りあいを日本の広告界は必要としている。特に新聞広告では「美しいインパクト」のために、その力を借りることを必要としている。
 コピーライターの仕事だけは、そのすべてといっていいくらい手づくりであり、人間そのものがおもてにでる。しかしこれとて表情をつけるために手を加える仕事が増えつつある。例えばキャッチフレーズだけ手描き文字にし、文字そのものをデザインする表現がとても新しく見えだしている。ついこのあいだまで写真植字というのが一般的で、デザイナーはピンセットで文字をつまんで、コピーそのものをデザインに昇華させるタイポグラフィーのすばらしい技術で、広告の個性的な完成度を高める仕事をするのが普通だった。広告が生き生きしていた時代の広告はいつも「ワン・トウ・ワン」の姿勢でプロたちが議論し、工夫しながらていねいに作られていたことを思い出すのだ。
 車の時代は脚の筋肉を弱くしスタミナをなくすように、機械やシステムの中で広告を作る「仕事」を、時間操作だけの「作業」にしていくほどに、広告を作品化させ、スケジュールとコスト優先になり、広告への「熱い思い」がどんどん薄くなることに気づいてほしい。「勝つ広告」も「めだつ広告」もない。きちんと気持ちよく伝わる広告を作るために、手あかのついた広告、手づくりの感性を考える時がきている。
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