特集 2003.10/vol.6-No.7

メディアとクリエイティブの関係
効く効かないはアイデア次第

 メディアは広告目的から選択されるべきなのに、そのメディアが効くか効かないかから始まる議論、一時的なデータにとらわれ瞬間芸化する広告。そこには中・長期的なブランドの育成が忘れ去られていないか。コピーライターの一倉宏氏に、今、企業が広告で伝えるべきものは何か、そのためにメディアをどうとらえているかを聞いた。
 
 ぼくらに仕事の依頼がある場合は2つのパターンがある。1つはキャンペーン全体の考え方からメディアミックスまでを提案できる場合、もう1つはテレビはこれだけ、新聞はこれだけとクライアントと広告会社の段階で使うメディアがあらかじめ決まっている場合だ。もちろん理想は前者だが、そういう仕事は残念ながら年に数えるほどしかない。
 その場合も、このキャンペーンは何をすべきかがまずあって、そのためにはどんなメディアがいいかと考えていく。メディアをどう使うかという話は、その結果だ。グラフィックでテレビと同じタレントを使う場合も、キャンペーン目的を達成するためにそれは必要か、必要ならどういう使い方がより効果的かと考えていく。それが筋だ。
 ところが、最近のメディアの話でまず出て来るのは、そのメディアは効くか効かないかということだ。しかも、その広告でものが売れるかどうかにとらわれ過ぎていて、それ以外の尺度はない。もちろん、企業にとって商品を売ることは大切だし、広告を出稿したら、それに見合った売り上げが期待されるのはわかるが、広告の役割はそれだけなのだろうか。
 新聞広告にもそういう影響は出ている。新聞を1つの街にたとえれば、銀座や丸の内のようにブランドショップが並んでいるところもあれば、秋葉原のようなのぼりが立っている街もある。それはそれでかまわないのだが、最近は、おしゃれなストリートが減っているような気がする。たとえば、健康食品の通販広告が新聞に載れば、人々は、その広告を見てある期待を持って電話をかけ、注文する。広告のレスポンスが数値化され、確かに効果もわかりやすい。問題は、こうしたカウントできる効果だけが注目されていることだ。その企業のブランドはどうなるのか、本当のブランド育成ということがおろそかになるのではないか、そういう疑問がメディアとクリエイティブの話の前提としてまずある。

瞬間芸になってしまった広告

 データがすべてのように言われているが、データは瞬間風速的なものだ。おもしろいものを見れば、人はその時は拍手するが、次の日にはもうそのことを忘れている。最近の広告クリエイターは、1回1回瞬間芸のような拍手をもらうことが自分たちの仕事、広告に対する評価だと勘違いしているような気がしてならない。人々は非常に忘れっぽいし、飽きっぽいことをつい忘れがちになる。
 また、宣伝部も、そういう瞬間風速的なデータを自分たちの存在証明にしているところがある。大切なのは中・長期的な視点に立ったブランドの育成のはずなのに、この広告でいくら売れたかというような瞬間風速のデータの綱渡りみたいなことを、みんなやっている。だから、その時はよくても、2、3年たってみると全然脈絡のないことになっているケースが多い。
 広告がそうなってしまった原因はいくつかあると思うが、その1つが競合プレゼンだ。競合プレゼンで勝つには、その場のインパクト、瞬間芸が求められる。そのために、その広告がブランドにとってどれほどの意味があるのかが後回しにされてしまう。
 もう1つの原因は、テレビコマーシャルの作り手が専業化したこともある。当初、テレビコマーシャルは演出家(CFディレクター)が考え、グラフィックはコピーライターが考えるというように、テレビとグラフィックは分離していた。それが70年代、資生堂がキャンペーン型広告を始めたころから、コピーライターがテレビにもかかわるようになった。たとえば、「夏だからこうなった」というキャッチフレーズがあったら、そのキャッチフレーズでテレビもやるし、新聞広告もやる。年2回、春キャン、秋キャンがあった。キャンペーン型は80年代には百貨店をはじめいろいろな企業がやるようになった。コピーライターブームと言われたのも、そのころだ。キャッチフレーズが一つあったら、それを追って、キャンペーン全部をくし刺しにするという考え方だ。
 それが90年代になると、広告会社の中にCMプランナーが出てきて、またテレビとグラフィックは分業化されるようになった。今は、テレビコマーシャルの企画はCMプランナー、それを演出するのがCFディレクターと分業化している。最近の広告は、キャッチフレーズをどう浸透させるかよりも、コマーシャルをどうおもしろく作るか、受けるものを作るかが主流になっている。企画を考えるCMプランナーの仕事は、広告の全体像を考えるというより、当たるか、当たらないかが評価の基準になってしまっているところがある。
 もちろん、コマーシャルがヒットし、それが大きなキャンペーンに展開される例もないわけではない。たとえば、NOVAウサギは、偶然当たったキャラクターがキャンペーン全体を作るようになった極めて幸運な例だと思う。
 ぼく自身も一時期は仕事の3分の2ぐらいがテレビだったが、自分がやりたいこともあり、最近は比較的グラフィックを中心に動いている。

幼児化する文化も要因

 広告がヒットする、しないというのは、以上のような状況下ではテレビのバラエティー番組にお笑いタレントが出てきて、受けた受けないというのとそれほど変わらない。もちろん、そういう広告もあっていいが、それは広告全体からみれば、とても小さいことのように思う。
 広告がそうなってしまったのは、作り手だけの責任ではない。テレビだけではなく他のメディアもそうだが、日本の文化全体が幼児化していることも大きい。それは、はっきり批判すべきことだと思う。
 そろそろぼくらの世代は課長から部長になる年代だが、それとパラレルな関係で気づいたのが、お茶の水で高校と大学両方で教えている友人が、かつて中学生が読んでいた本を今は高校生が読んで、大学生が高校生の本を読んでいると言っていた話だ。お茶の水でさえそうなのだから、推して知るべしだと思う。会社も同じで、かつて課長がやっていた仕事を今は部長がやって、部長がやっていたことを事業部長がやっている。今は幼稚園生みたいな中学生がいたとしても不思議ではない。
 ものに対する評価語も、最近の若者には「カワイイ」「キモイ」ぐらいしかない。テレビで人の言ってることをわざわざ文字にして流すことが当たり前になっているが、それは人の想像力や感受する力をまったくスポイルするメディアの荒廃ぶりを象徴している。それが瞬間芸の広告が受ける背景にある。
 もちろん悪い面ばかりではない。ぼくらの若いころに比べて、今の若者のセンスはものすごく磨かれている。確かに言葉では「カワイイ」「ヤバイ」「ダサイ」くらいしか言わないが、子どもたちの描く絵は確実にうまくなっているし、デザインのセンスもよくなっている。おしゃれ度に関しては、たぶん日本の若者は世界でいちばんだと思う。
 そういう意味では、広告もデザインの力が大きくなったのは確かだと思う。ただ、彼らもメールでも会話でも言葉でコミュニケーションし、言葉で感動しているわけだから、言葉で彼らのハートをヒットすることは絶対できるはずだ。もちろんコピーライターの力不足という面もあるだろうが、今の広告はコピーの力を生かしていないところがある。
 数年前にぼくが作ったJR東日本の「愛に雪、恋を白」というキャンペーンのキャッチフレーズがある。新聞もあったが、ポスターは2枚組みで、片方がタレントの吉川ひなのの顔だけで、片方が文字だけ。それもはみ出すぐらいの文字だった。それがすごく好きだ、見たときに感動したという若い子がけっこう多かった。しかも、不思議だったのは、普通ならひなのの顔のポスターの方が盗まれるはずなのに、文字の方だけ取られた。愛と恋でベタなコピーだけれど、今の時代にコピーが力を発揮しないということではない。若者に対してもそういう力が、言葉にはある。

JR SKI SKIキャンペーン ポスター(JR東日本) 愛に雪、恋を白。


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