特集 2002.10/vol.5-No.7

活字文化・出版文化を考える
所有する本、使用する本 植村八潮氏

 eBook、eラーニング、オンデマンド出版など本をつくる現場では、出版の電子化のさまざまな試みが行われている。そこで起こっている問題は何か、紙の本と電子の本の将来はどうなるのか。東京電機大学出版局の植村八潮氏に聞いた。
 
 理系の大学ということもあり、80年代末から学内にはインターネットが入っていた。当時のメールはバケツリレー型だったので、海外から届くのに一晩かかった。それでも、「早いな、これ」と言っていた時代だった。そのころは、学術系と商用系のネットワークは分離されて、学術利用は無料のまま残り、商用利用には有料のネットワークサービスが確立するだろうと予想されていた。そうでなければ、インターネットは広まらないだろうと言われていた。
 それは、「お金が回らなければいいコンテンツはつくれない」というごく当たり前の理由からだった。逆に言えば、いいコンテンツをつくればお金をもらえるというのが、資本主義の美徳だからだ。ところが実際には、学術・商用の別なく無料のインターネットの世界が巨大化してしまった。新聞や出版というコンテンツに携わる業界が、情報は無料が当たり前という今の状況をどう考えるか、この先どうなるのか、という問題に直面している。

電子化される辞書

 1年間に売れる電子辞書は、300万台に上っている。当初は簡易型辞書だったが、最近はオックスフォード英英や広辞苑などを全部載せたフルコンテンツ型が半分を占めている。一つの電子辞書には、国語、英和、和英など6冊くらいの辞書が入っていて、紙の辞書に換算すれば電子辞書は年間すでに1000万冊売れていることになる。一方の紙の辞書は年間1200百万冊で、電子辞書は紙の辞書にほぼ匹敵する冊数がすでに売れている。
 このため辞書の出版社では、電子辞書のロイヤルティー収入がかなり大きくなってきていることも確かだが、このロイヤルティー収入は、出版社の収入の中ではまだ「おまけ」ととらえられている。つまり、紙の辞書が売れることを前提にした収益構造になっている。
 では、紙の辞書が売れなくなったときに、どうなるか。その先行事例が百科事典だ。百科事典はすでにCD-ROM化されているが、それが売れても紙の百科事典と違い、出版社の経営を支えるには至らなかった。
 出版社は、紙の本という最終商品をつくっている。しかし、電子辞書で最終商品をつくっているのは電機メーカーであって、出版社にはロイヤルティー収入しか入らない。その収入だけでは、コンテンツの開発はできない。

コンテンツの値段

 そもそも、インターネットが登場する前に、「コンテンツ」という言葉をだれが使っていただろうか。「コンテンツ」とは、目次のことだったはずで、本の装丁がパッケージで、コンテンツとは中身のことだとはだれも考えていなかった。そして、コンテンツだけ独立して売れると聞いたときも、その値段の意味を、だれも問わなかった。それを今、真剣に考えないといけない時期に来ている。
 人前で出版の話をするときに、「書籍を『使用』してますか、『所有』してますか」と聞くことにしている。改めて問われると、ほとんどの人は本を「所有」していることがわかる。古本の愛書家は特にそうだが、かなりの本好きの人でも、蔵書の中で読んでいる文字量は1割にも満たないのではないだろうか。九割は、パッケージを持つことにお金を払っている。つまり、コンテンツに払っているお金は1割ということになる。
 コンテンツだけを独立させた時に、そうした紙の本と同じだけの収益をあげられるかと考えれば、われわれはコンテンツに適正な値段をつけ損なったことに気づく。出版というコンテンツに携わる人たちが、コンテンツの収益モデルをわかっていなかったのが、出版のデジタル化が直面している問題である。
 さらに具合の悪いことに、インターネットの情報は無料が当たり前になっている。インターネットが登場することによって、コンテンツの値段について改めて気づかされたのではないだろうか。

バスに乗り遅れるな?

 「コンピューターで本が読めるか」とよく言われる。ディスプレーで読めるか読めないかと問われれば、読めるし、すでに読んでいる。そこで小説を読むかと聞かれれば、ぼく自身は「読まない」と答えるだろう。
 では、なぜ青空文庫が人々の注目を集めているかと言えば、絶版になった本を電子化し、復活させるという別な意味があるからだ。出版の電子化は、そういうトータルな視点からとらえなければいけないのに、今はオンラインで小説が配信できるというような、技術的な可能性だけが強調され過ぎているように思う。
 例えば、スティーブン・キングの小説がオンライン出版で50万部売れたという話をよく聞く。その多くが無料でダウンロードされたものだったにもかかわらず、50万部という数字が独り歩きし、「だから、電子ブックのバスに乗り遅れてはいけません」という形でアナウンスされる。それは印刷会社の人が、「この本の内容は、すごくいいですよ。早く刷らないと時期を逃してしまいますから、10万部刷りましょう」と言っているのと同じだと思う。1冊も売れなくても、リスクを取るのは印刷会社ではなく出版社だ。
 受注会社のプレーヤーが前面に出てきて、電子出版ビジネスはこんなにうまくいくという話が無批判に出ている状況は、出版に携わるものとして、ある意味情けなくもある。「なぜ本をデジタル化しなければいけないのか」「何がデジタルに向くのか」という話が、実はまるで見えていない。

本の役割とデジタル化

東京電気大情報環境学部の授業風景 15世紀にグーテンベルクが印刷技術を発明して最初に印刷されたのが聖書だったことはよく知られているが、その約20年後にオックスフォード・ユニバーシティー・プレス(オックスフォード大学出版部)という世界最古の出版社が誕生している。当時の学問といえば神学で、教科書は聖書か宗教書、そのための本をつくるところがプレスだった。つまり、知識の流通の最初にあったのは学術情報だった。それから百科全書的なものが生まれ、その流れとして辞書が登場する。小説が出版の仲間入りをするのは、ずっと後のことだ。つまり、本の役割は「学ぶ」「調べる」が初めにあり、その後「ストーリーを体験する」が加わった。
 ところが、今は「ストーリーを体験する」こと、小説やエッセーを読むことが「本を読むこと」だと自動的にとらえられている。それは、書籍の歴史から見れば、狭い意味の「読む」でしかない。
 実は、メーンの本の役割は「学ぶ」で、それは今でも変わらない。例えば、出産に備えて本を読む、子どもが生まれれば子育ての本を読む、生まれた子供に絵本を見せる、小学生になれば子どもは教科書で学ぶ。料理や生け花の本にしても、すべて「学ぶ」ための本だ。
 そういう視点から本のデジタル化の現状を見ると、百科事典や辞書などの「調べる」本は、かなりのところまでデジタル化が終わっていることがわかる。「調べる」「飛ぶ」「ジャンプする」というのは、デジタルが得意とする分野だ。こうした本はデジタル化の優位性がかなり高いから、紙には戻らないだろう。また、「学ぶ」という面もあるが、どちらかというと「調べる」性格を持った学術情報も完全にデジタル化が終わっている。
 そういうふうに考えていったときに、次に何が電子化されるかといえば、「学ぶ」ための本、教科書ということになる。
 小説をPDFで読むということが話題になっているが、紙の本にとってその分野は当分の間は心配ない。四年前に本を電子化しようという「電子書籍コンソーシアム」ができたが、その試みは失敗に終わったと言っていいだろう。その理由は、電子出版市場を立ち上げる動機が、最も電子化がふさわしくない小説と漫画だったからではないだろうか。

メディアがコンテンツを育てる

 本の歴史をたどれば、メディアがコンテンツを育てたということもよくわかる。最初の本は巻物で、その時のコンテンツは日本でいえばお経、西洋では聖書だった。お経や聖書は、頭から通して読むものだ。その次に冊子本が生まれる。冊子本が生まれたことによって目次と索引をつくることが可能になった。索引が生まれて、初めて百科事典ができる。
 紙のメディアでつくり上げてきたものは、紙のメディアのためのものだ。それをそのまま電子メディアに移し替えても無理がある。
 テレビは映画の影響のもとに生まれたが、テレビにあったコンテンツを開発してきた。ところが、今、出版のデジタル化で行われていることは、教育テレビの番組で教科書をずっと映しているようなものだ。デジタルにするということは、紙とは違う別のコンテンツが育つことだととらえなければいけない。巻物と冊子本が紙のコンテンツを育ててきたように、デジタルに適したコンテンツは絶対ある。ただし、それは紙とは別のコンテンツになるはずだ。

「白か黒か」になりがちな議論

 紙の小説のエンターテインメントに対抗するデジタルのエンターテインメントはすでにあって、それはロールプレーイングゲームだと思う。例えば、FF(ファイナル・ファンタジー)で、われわれはストーリーを体験する。しかも、そのストーリーに積極的に自分がかかわって、その中をドライブできる。これこそデジタルなストーリーだと思う。紙のように最初からおしまいまで通して読む形式は、デジタルの世界ではナンセンスだ。
 だから、たぶん教科書がデジタル化される時も、今の紙の教科書がそのままデジタル化されることはない。教育のデジタル化を研究している人たちに聞くと、それは「講義と教科書と教材の三つがデジタルの上で混在化した何かだ」という答えが返って来る。
 出版のデジタル化の議論をしていていつも思うのは、まるでそのときだけお互いがデジタルになったように、白か黒か、1か0かの議論をしてしまうことだ。大事なのは、デジタルにふさわしいものは何か、それをどう育てていくかという視点だ。それがいつの間にか、「紙の本は無くなるか、無くならないか」という、白か黒かの議論になってしまう。自分たちのコンテンツを守る話、既得権益を守る話にすり替わってしまう。

本の価値は等価

 今の出版業界は、いかにたくさんの本を売るかが尺度になっているが、読者から見れば、10万部売れた本も千部しか売れない本も、1冊しか買わないわけだから等価なはずだ。この本に出会ってよかったという読者にとって、それがベストセラーであろうが1冊しか売れていない本であろうが、変わらない。その視点を出版業界はいつ忘れてしまったのだろうか。
 オンライン書店がインターネットに登場したときに、これでわれわれのような専門書出版社が出す500部しか売れない本が救われると、本当に思った。500部しか売れない本も、10万部売れる本も、日本中に同じように情報を発信できるからだ。ただ、それはかなり幻想だったことは後でわかったことだが、少なくとも、500人の読者に500部つくって500部届けるのが理想だとすると、ネットワークとデジタルには、その可能性がある。

出版社が本来考えるべきこと

 ひところアメリカの大学で試みられていたeラーニング事業は、みんな失敗に終わっている。それは、一般の人たちを対象にした公開講座だったからだ。それが今、eラーニングやインターネットは学生のために使うべきだという方向に戻っている。
 マサチューセッツ工科大学(MIT)が昨年、これからの10年間で、ほとんどすべての講義の教材をインターネットで無料で公開すると発表したが、そのオープンコースウェアのPRにMITで言語学を教える宮川繁氏が来日して講演を行った。なぜ、MITが教育コンテンツをフリーにするか。それは、教育者には自分たちの教育内容をよりよくしていく責務があるからだ、そのために講義内容をオープンにしてフィードバックしてもらうのだと言っていた。その講演の中で宮川氏は、日本の大学の先生と話をすると「これからの大学経営は厳しい。お金もうけを考えなくてはいけない」という話が最初に出るが、教育者が最初に言うべきは教育のはずだ、とも言われていた。
 今の出版社も一緒ではないだろうか。新人のころには、こういう本をつくりたいと熱く語っていた人たちが、いつの間にか、インターネットでどういうビジネスをやればもうかるか、というようなことばかりを語るようになってしまっている。

デジタルにおける出版文化

 ハリー・ポッターは日本でも1000万部売れ社会現象ともなったが、金額にすればわずか200億円だ。しかし、200億円の売り上げの仕事が、どれほど多くの人たちに生きがいや自信を与えているか考えてほしい。もっと言うなら、出版業界の2兆5000億円という売り上げは、一企業の赤字と一緒の額だ。そんな小さな規模でありながら、多くの人たちに情報を伝えるだけでなく、夢や、もう一度やり直してみようという生きがいを与えている。
 そういう尺度をすっかり忘れて、われわれはデジタル化と一緒に、金銭という尺度を出版業界の中心に持ち込んでしまったような気がする。
 友人の技術者が、あれだけの機能を持ちながら携帯電話が0円で売られているのは情けないと言っていたが、それと一緒で、われわれ出版社の人間にとって情報が完全に無料という今の世の中は、やはりおかしい。
 eコマースと同じ視点でデジタル出版をとらえるのが間違いだと思う。今、言われているデジタル出版やオンライン書店は、すべてeコマースの中での話だ。そうではなく、デジタルの中における出版文化とは何か、という議論をすべき時期に来ているのではないだろうか。

東京電機大学出版局のホームページ「ネットワークと出版」 東京電機大学出版局のホームページ
http://www.dendai.ac.jp/d9_press/

「ネットワークと出版」のコーナーには、デジタル出版に関する植村氏の文章が掲載されている
http://www.tdupress.jp




状況への発言
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本・売りの現場から
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