特集 2002.10/vol.5-No.7

活字文化・出版文化を考える
大澤真幸氏 状況への発言 西垣通氏
 
メディアが世界を変える

西垣通氏
 西垣 なぜキリスト教徒が世界を制覇したかは、メディアの問題に絡んでいると思います。イスラム文化は、手書き文字の文化として洗練の極致にあった。中世の文化レベルはヨーロッパなど問題ではありません。ところが、15世紀にヨーロッパに印刷文明がおこり、やがてプロテスタンティズムがヨーロッパに広がっていく。共同体的文化から個人的近代文化へと、イデオロギーに対する受容の仕方が大きく変わっていったのです。そのプロテスタンティズムが、資本主義をつくり、さらにそこから新たな一神教としてマルキシズムが出てくる。
 ところが、そのマルキシズムがなぜ破れたかというと、テレビが出てきたからだ、という考え方もできるわけです。つまり、マルキシズムの考え方は論理的で、印刷文字にもとづき、近代的なのですが、テレビは論理に訴えるよりも、諸感覚を揺り動かす装置です。それが後期キャピタリズムとうまくマッチしたとも言える。

 大澤 おもしろい指摘だと思いますね。フランスの思想家のジャック・デリダは、ヨーロッパの近代的な哲学の限界を指摘した人ですが、彼はヨーロッパの文明は声中心主義になっていると言っています。彼の言う声というのは、自分の内面の声のことです。つまり、真理を探究する人は自分の内面の声に耳を傾けて、それを再現していくという考え方です。
 それに対して、イスラム文明は、文字をはるかに重視しています。漢字文明の中国もそうですが、文字中心主義は、実はヨーロッパの外にはいっぱいあった。もちろんコーランは声に出して読みますが、その声は、自分の内面の声ではありません。それは個人を超えた神の声であり、イスラム教は神の声を映し出す文字の文化だったのです。
 一方のキリスト教、特にプロテスタントは、個人の声で読む宗教になっていった。ルターはバイブルをラテン語からドイツ語に翻訳しましたが、これはバイブルを自分がふだん使っている個人の声で読みなさいということです。キリスト教の文明、特にプロテスタント以降の文明は、言ってみれば、個人の声の文化に変わっていった。近代社会は個人の声を重視する、簡単にいえば国語の思想です。それはナショナリズムとつながってくるわけですが、そういう国語の思想を持っている社会が世界の覇権を握っていった。そして、国語―ナショナリズムは印刷文化に大変フィットするのです。
 しかし、西垣さんが今おっしゃったように、さらにその後に、今度はマスメディアというか、テレビの時代が起きてくる。ヨーロッパ的なものをさらに徹底させたアメリカ的なものの段階に突入し、その後、今度は電子メディアの時代になっていったわけです。
 例えば、ぼくらの世代はまだ印刷文化が主流の時代に育ったから、文章がどうしても硬い表現になります。もちろん昔の漢文とは違いますが、完全な話し言葉とも違います。ところが、コンピューターが普及してから育った人たちは、本当の話し言葉で書いている。ぼくらがそれをまねしようとしても、なかなか書けません。
 つまり、自分の内面の声を聞くというのはぼくらの世代までの考え方で、それが文字の書き方になっている。それに対して、もっと対人関係の生の状態にある言葉をそのまま映していくのがたぶん電子メディアの時代の感覚です。それは内面への探究とはちょっと違ったスタイルを生む。

 西垣 電子メディアが何をもたらすか、本当によく考えなければいけない点ですね。イデオロギーを評価するとき、そのイデオロギーの内容自体だけでなく、そのイデオロギーがどういうメディアにのって広がっていくかに注目すること、つまり、媒体からものごとを眺めていくこと。フランスの哲学者レジス・ドブレの「メディオロジー」は、まさにそれを主張する。イデオロギーがのる物理的媒体だけでなく、それを支える社会制度も重要です。たとえば、同じ文字でも、郵便や書籍流通という制度の有無によって全然違いますからね。そういう観点から見て、今後のインターネット時代に、われわれみんなに浸透するイデオロギーがどういう形を取るのか。

普遍論理と思想家ルルス

 西垣 一神教の普遍論理は、良い意味でも悪い意味でも強力なものであって、それが近代の自然科学をつくった。『1492年のマリア』で、ライムンドゥス・ルルスという13世紀の思想家に光を当てたのも、そういう脈絡からです。この人は元々、マヨルカ島という、キリスト、イスラム、ユダヤの3宗教が混じり合ったところの有力な貴族であり、騎士でした。ところが、彼はその身分を捨ててアフリカに布教に行く。そのとき、三つの宗教を包含する一種の普遍的なロジックがあるのではないかと考え、それを具体化する一種の記号操作機械を考案する。それこそが、メカニックな記号論理操作の先駆だったと言えるでしょう。
 近代の自然科学はスコラ哲学から物理学へという流れでとらえられがちですが、もう一つ、このルルスからライプニッツの普遍記号学、19世紀のバベッジ、20世紀のコンピューターにいたる機械的な記号論理操作の流れがあり、思考する機械としての人工知能もこの伝統から生まれて来ます。
 このようにルルスはもともと宗教家、啓蒙家だったのですが、後世にはむしろ、ルネサンス魔術の大家とされてしまいます。つまり、記号をうまく操って、自然をマニピュレートするという面が評判を呼び、やがていかがわしい術として歴史から抹殺されていった。ところが、そういう流れがコンピューターにひそかにつながっていて、今やITが、金融工学などという一種の現代錬金術の道具となっている。ルルスが普遍機械をつくった意図は、まったく逆だったわけですから、その辺りに歴史の悲劇を感じますね。

 大澤 今のお話を現代にひきつけて、ルルスに近い人はだれかと考えた時に、チョムスキーが浮かんできます。9.11テロでも積極的に発言をしていて、最近はそちらの方で知られていますが、元々は言語学者です。言語に、ある種普遍的な論理を見いだそうとしている点では、彼の根っこにはモダニスト的なところがあります。ただ、ヨーロッパ言語がそのまま単純に普遍的なものではないことも彼はわかっていて、すべての言語に通底する普遍的な法則を見いだそうとしていた。だから、ユニバーサルグラマー(普遍文法)みたいなことをいうわけです。
 ただ、普遍文法はヨーロッパの言語ではうまくいくが、日本語のような膠着語やタイ語のような孤立語ではもうひとつうまく説明できないという批判も出ています。

 西垣 私がルルスに着目したもう一つの理由は、第5世代コンピューターとの関連です。これは、1980年代に日本が初めて世界に誇れる独自のコンピューターをつくろうとした大プロジェクトで、私もその当時メーカーのエンジニアとして、しばらくその開発に携わっていました。
 第5世代コンピューターは当初、人間のように思考し、人間の言語を理解できる人工知能機械を目指したのです。その自然言語処理技術の理論的支柱となったのがチョムスキー理論です。ですからルルスとチョムスキーとはつながりますね。チョムスキーは筋金入りのユダヤ知識人です。
 第五世代コンピューターの試みは失敗に終わったのですが、それでも、普遍論理には必ずどこか理想主義的な輝きがあります。私個人としては、一神教的普遍主義の持つ暴力性には辟易しますが、一方ではその論理性や理想主義的な面に好感を覚えます。しかし、一神教的なもの、論理的体系は、実際の具体的な問題に適用していくと、どうしてもズレや食い違いが出てくる。

 大澤 ぼくは『1492年のマリア』を読んで、西垣さんの悩みに非常に共感しました。確かに、ルルス的なやり方はあります。みんなが共通に依存できるようなニュートラルで抽象的な言語をつくれば、全員の対話が成り立つのではないか。しかし、ルルスも悲劇的な失敗に終わるわけです。
 それに対して、どうすればいいのかと考えた時に、この小説の中にいろいろな可能性が暗示されていると思うのです。特に、マリアの生き方がそうです。例えば、コロン(コロンブス)やルルスにあるのは一種のミッションの感覚です。つまり、新天地や全員が共存できるユートピアを目指すミッションは非常に美しい。しかし、ユートピアに向かっているつもりが至りつく先は実は地獄なのかもしれない、パンドラの箱を開けてしまうかもしれない可能性があるわけです。それに対して、マリアの生き方が対置される。それが、問題の最終解決かどうかはまだわかりませんが、マリアは、別の生き方を提示している。それは、ぼくはパッションだと思うのです。受難、受苦のことです。〈ミッションからパッションへ〉が、この小説からぼくが受け取った一つのメッセージです。


大澤真幸氏 Osawa Masachi
文明の内なる衝突1958年長野県生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程修了。現在、京都大学大学院人間・環境学研究科助教授。専攻は、比較社会学・社会システム論。 著書に、「文明の内なる衝突」(NHKブックス)、「見たくない思想的現実を見る」(共著、岩波書店)、「〈不気味なもの〉の政治学」(新書館)、「虚構の時代の果て」「戦後の思想空間」(ちくま新書)、「性愛と資本主義」(青土社)、「資本主義のパラドックス」「電子メディア論」(新曜社)、「身体の比較社会学I・II」(勁草書房)ほか。


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