特集 2002.9/vol.5-No.6

変わる新聞広告の掲載基準
 規制緩和の流れの中で、広告表示に関する諸規則や各業界の自主的ルールが変化している。弁護士広告、医療広告、クーポン広告などが、その主なものだ。今回の特集では、こうした広告の規制緩和のポイントを紹介すると共に、新聞の広告掲載基準のもつ意味を改めて探った。

新聞広告の信頼性を担保する広告掲載基準
Kunio Sakurai
1947年生まれ。名古屋大学法学部、同大大学院法学研究科博士課程(民法専攻)修。著書に「広告の法的意味」(勁草書房、1995)、「遺言の作法」(ライフリサーチプレス、1999)、「学問の作法」(東京基督教大学、1999)ほか多数。日本私法学会、国際消費者法学会、日本広告学会ほかに所属。

新聞の広告掲載基準はほかのメディアと比べ特に厳格なものといわれ、それが新聞の信頼性を担保しているといわれてきた。しかし、これまで、それが法的に明確に位置づけられてきたわけではない。契約法を専門とする東京基督教大学教授の桜井圀郎氏に、広告掲載基準の法的位置づけと、今日的意味を聞いた。
 
信頼を基礎にする現代広告

――広告掲載基準についてお聞きする前に、法律の視点から見て、広告はどのように位置づけられているかからお聞きしたいのですが。
 民法では、「広告は単に売買の申込を誘引するだけのものであって、契約に直結するものではない、契約は、広告とは無関係に売主と買主との個別の交渉を通じて締結されるもの」とされてきました。つまり、広告は法的に意味がないということなのです。
 しかし、私自身はこの広告の見方は古いものだと思っています。民法が想定してきたものは、フーテンの寅さんのような屋台のたたき売りのイメージです。「広告はうそをつくもの」という前提に立っているのです。一昨年に成立した消費者契約法でも、広告は契約の締結の勧誘に当たらないという見解を当時の通産省は出しています。個別の交渉によって契約は成立するという考えなのです。しかし、実際に商品は広告を頼りに購入されていますし、広告に対する信頼がその基礎になっていることは明らかで、民法は現代広告とはかけ離れた見方をしています。
 そういう視点から「広告とその私法上の効果」という論文を九一年に、『広告の法的意味』という著書を95年に出したのですが、最近ようやく民法界でも認知されてきました。法律の世界は保守的ですから、10年近くかかっています。

――小中学校の教科書でも、悪徳セールス商法やキャッチ商法とほとんど同レベルで広告が語られているものもありますが。
 法律は、いままで広告に対してかなりマイナスのイメージを持っていました。私自身も元々はそうだったのですが、広告と法の関係に踏み込めば踏み込むほどそうはいえない、むしろ、広告があって世の中があるというところからスタートすべきだと考えるようになってきました。
 広告に限らず、実際の商品にも良いものもあれば悪いものもあります。悪い商品もある程度は制度で規制できますが、そこからはみ出すものはあるし、偽ブランド商品も出てくる。広告も同じことです。
 広告がもし信頼できなかったら、自由競争の世界では広告はなくなってしまうはずです。ところが、広告はなくならない。なくなれば経済は大混乱を起こしますし、消費者に何の情報も伝わらず、かえって消費者被害も増えます。経済社会を円滑に動かす役割を広告が担っているということです。
 逆にいえば、広告がもし信頼を失ったら自由競争の世界では自動的に消滅するはずです。これを私は、「広告の死」と呼んでいます。広告の死というのは、つまり日本経済の死をも意味します。
 しかし、その中に問題となるものも時々出てきますから、それはやはり排除していかなければいけない。その役割の一つを担っているのが広告掲載基準だと思います。

契約の一部としての掲載基準

――新聞の場合、特にその広告掲載基準が厳格ですが、どうとらえていますか。
 広告掲載基準は、対消費者関係と対広告主関係という二つの面から見ることができます。つまり、消費者保護という視点と媒体社と広告主との契約という視点です。
 消費者保護という観点で言えば、広告掲載基準は虚偽の広告や誇大広告を排除する機能を担っています。一定の基準をクリアした広告を提供することで読者の自主的判断を援護する役割を果たしているといえます。
 対広告主関係では、広告掲載基準は媒体社と広告主との契約という視点から見ていく必要があると思います。広告取引は、あくまで媒体社と広告主との契約関係ですから、広告掲載基準も、これを基本に考える必要があります。実際に契約書を取り交わしているか否かは別として、法的には広告主と媒体社との間には広告掲載契約があります。そして、その広告掲載契約の約款の一部に広告掲載基準があるという位置づけになります。

――というと?
 約款は不特定多数の人たちを対象に同一の内容で契約することを前提にあらかじめ作成された契約の条項のことです。保険、銀行、運送、通信などの契約には必ず約款があります。本来契約は個別的なものなのですが、そうすると一人ひとり交渉して契約条項を定めなければならなくなります。それでは不特定多数人との取引は大変です。それであらかじめ一定の契約条項を定めておくわけです。約款取引は近代取引の特徴で、これによって大量の取引が簡単にできるわけです。

――これまでそういう観点から広告掲載基準は理解されてこなかったと思うのですが。
 広告掲載基準は、これまで民法的な視点からはほとんど位置づけされてきませんでした。しかし、法的に理解することで別の視点が開けると思うのです。
 広告を法律の問題として考えてこなかった背景には、日本人に法律嫌いや契約の意識が薄いということもあります。
 日本の契約書はだいたい十か条ぐらいで1枚きりが多い。それで、最後に「問題があった場合には両者誠意をもって協議の上うんぬん」と書いてある。日本の場合は、この一か条で大丈夫なのです。
 ところが、30年も前、日本企業がアメリカに進出していったころにこの条文が問題になった。「両者誠意をもって協議の上うんぬん」は無効の条文であるという判例がいくつか出ているのです。アメリカ人にしてみれば、すでに訴訟になっているのに、両者が誠意をもって協議をすることはありえないのです。最近は日本もアメリカとの取引に対しては契約書がずいぶん厚くなりましたが、国内的にはまだまだこの条文は生きています。
 アメリカの場合、まず契約してから取引をする。相手がだれかわからないから、詳細な契約をするわけです。商品が納められない場合、欠陥があった場合など詳しく規定する。日本の場合は、お互いの信頼関係を築いてから、おもむろに契約する。だからあまり詳しい契約内容は必要ありません。広告取引もほぼ同じだろうと思うのです。

――契約書を取り交わす習慣もこれまではあまりなかったですね。
 法的に言えば、契約は口頭で成立します。契約書のあるなしは問わないのです。私が言いたいのは、日本人の契約に対する意識の問題です。日本人は、契約に拘束されると思っていない。「経営が苦しくなってきたから1割まけてよ」という取引を普通にやっている。これからは、日本にも契約の意識が必要ではないかと思っています。広告掲載基準も同じで、もう少し契約的なとらえ方をすべきだと思うのです。

掲載基準を公表する意義

――契約的な視点から見た広告掲載基準というのは?
 広告掲載基準は広告掲載契約の約款の一部と解しうるといいましたが、あくまで広告主と媒体社との間の私的文書です。どのメディアも一般には公表していないと思いますが、それ自体は別に問題はありません。両者間の契約なのですから、それはお互いに守ればいいだけのことです。ですから、メディアがA社にはこの基準を使い、B社には別の基準を使っても全然問題はないわけです。それが契約自由の原則ということです。
 しかし、一般にはそれはしてはいけないことと思われています。つまり、広告掲載基準はメディアと広告主との間の契約なのではなく、公的な法律のようなものと意識されているということです。実はそれが先に申し上げた約款ということなのです。約款であれば、銀行、保険会社、運送会社などと同様、あらかじめ公示しておく必要があります。その意味で私は、広告掲載基準は、今後、公開しておくべきではないかと思っています。

――これまでの発想を180度転換する?
 広告掲載基準はこれまで、「お上の命令」という雰囲気でとらえられてきたふしがあります。それは、メディアにとっても、広告主にとっても非常にマイナスだと思うのです。むしろ、広告掲載基準は広告主の権利を守るものだと理解した方がいいのではないでしょうか。
 広告に限らないのですが、日本人は法律というと“公法”を思い浮かべ、上から下への命令という意識でとらえる傾向があります。お役所が絡んでくる行政法、あるいは警察が絡んでくる刑法のことを考えてしまいます。これは東洋の法意識です。日本は西欧から法体制を輸入していますが、その元となっているローマ法の視点では、法というのは民法です。法律の8割が民法で占められています。要するに人と人との関係が法の基本で、裁判もあくまで個人と個人の問題だということになっています。刑事裁判の場合も、国と個人との取引を裁判官がフェアな立場でジャッジするという考え方です。
 ところが日本はそうではなくて、刑事裁判だけではなくて民事裁判までも、お上が悪いやつを取り締まるという大岡越前のようなスタイルで理解されています。法は統治の手段、つまり統治者が民を強いる道具とされてきたのですから、日本人の法嫌いは当たり前なのです。上からの命令というイメージを持っているものですから、「してはならない」「ねばならない」という表現に対して負のイメージを持ってしまうのです。
 西欧では、法は権利の体系であると理解され、法によって私は守られていると意識されます。日本では強制されるものだから「嫌い」という意識になるのです。広告掲載基準も同じです。本来、関係者の権利を守るためのものであるべきなのです。

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田村良彦記者→
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