特集 2002.6/vol.5-No.3

人は新聞に何を求めているか  

 新聞用紙自体も進化している。新聞の増ページとオフセット化にこたえるために軽量で発色のいい紙が求められている。新聞用紙の作り手はどのような工夫をしているのだろうか。日本紙共販営業統轄本部品質保証部の水谷健二氏と越田正紀氏に聞いた。

日々の歴史を記録し続ける新聞 山崎正和氏

  新聞を読むとはどういうことだろうか。日々のニュースを伝えるという新聞の機能、新聞が伝える情報の特性、新聞社、そして新聞広告が社会に果たす役割、その今日的意味を、文学から文明論まで幅広い分野で活躍する劇作家の山崎正和氏に聞いた。
 
日々の日記としての新聞

 新聞とは何かと言えば、まず、国民の日記だということだ。読売新聞は明治七年に創刊されているが、その間に、日本の興隆もあれば、戦争、敗戦、戦後の復興があって、いまがある。新聞は、その毎日毎日を記録し続けてきた。
 日記の面白さは、それを振り返ることで、過去を教えてくれる点にある。人間は、将来への見通しや計画を持って生きているけれども、現実に分かっているのは、きょうのことだけだ。例えば戦争が始まったときに、この戦争に勝てるか負けるかは、だれにも分からなかった。それでも毎日起こっていることは記録できる。そういう視点を持つメディアは、新聞以外にはない。
 例えば、読売新聞を読んでいる1000万世帯の読者たちは、毎日同じ1日を体験する。そのことは、人間の持っている弱さ、つまり明日のことは分からないという弱さと、それでも今日希望を持って生きるという強さの両面を持っていることを新聞は存在そのもので証明している。
 情報が氾濫している毎日だが、実は垂れ流しの情報というのは本当の意味で役に立つ情報ではない。日記を書くときの私たちは、必ずその日に自分の身に起こった大切なこと、なにがしか意味のあることを書き留める。新聞を日記と言ったのは、そういう意味もある。
 朝ご飯に何を食べて、どういう電車に乗って出かけたかということも日々の事実としてはあるけれども、私たちはそんなことは日記に書かない。もし朝ご飯に特別のご馳走があったなど何か印象深いことがあれば、それは書く。つまり、日記を書くという行為を通して、私たちは1日を振り返り、今日はつまりどういう日だったのかという意味づけを行っているということだ。人は日記で毎日毎日、自分の人生を編集しているともいえる。
 新聞も、実は同じことをやっている。もちろん、新聞は非常にたくさんの記者や整理、論説という複数の人たちがつくっているが、それぞれの立場でその日というものを編集している。これが、過去、将来ともに変わらない新聞の最大の特徴だと思っている。つまり、1日に起こったことを総括して意味づけるという役割だ。
 電波媒体は大変役に立つもので、それこそ何か事件が起こったら毎秒ごとの情報を送ってくる。同時テロの時、テレビはニューヨークのワールドトレードセンターにカメラを向けっぱなしで、どんなふうに煙が出て、建物が崩れて、人が逃げ、走っているかを教えてくれ、私たちにとって強い関心の対象になった。
 しかし、テレビを2時間見ていても3時間見ていても、結局それがどういうことなのかは分からない。何が起こったのかがまとめて書いてあるのは、その日の夕刊や次の日の朝刊だ。それが新聞の機能だ。
 ワールドトレードセンターが倒壊した日、ほかにも事件が起こっている。どこか日本の街で殺人事件があったかもしれないし、交通事故があったかもしれない。それも新聞には載っている。
 また新聞の記事は、紙面の上でのバランスが、それぞれの出来事の大きさを示している。新聞を開くと、その紙面の右側にきて、記事の大きいものほど重要な記事だと教えてくれる。もちろん見出し、前文で事柄を要約し、記事で真に情報そのものを要約し、われわれに情報の入り口を与えている。これは、今後いかに電波媒体が発達しても、新聞にしかできないことだと思う。
 新聞は必ずしも長期間有効な真実を伝えるとは限らない。次の日になってみたら昨日の報道は誤報であったとか、修正の必要があるということは当然ある。でも、それがまさに人間の弱さをも表している。われわれ自身、昨日大変だと思ったことを今日考えてみると、大したことはなかったと思うことはよくある。そういう人間の関心の呼吸のようなもの――吸ったり吐いたりを新聞は毎日やっている。そこに新聞の第一の存在意義がある。

山崎正和氏受動と能動のバランス

 情報には二つの側面がある。一つは、私たちが知りたくもないのに飛び込んでくる情報だ。それから、そういう情報の中から私たちが積極的に選び取って、これを知りたいと思う情報もある。これは、情報は2種類あるということではなくて、読む側の態度が二つあるということだ。
 受け身で、ただ目を開けて入ってくるものを受け入れる状態は、英語でいうと「see」、ただ見ている状態のことだ。ところが、その中に何か面白そうなものがあると、われわれは目を見開いて見る。つまり「look at」が始まる。情報に対するわれわれの態度には、「see」と「look at」の両方がある。
 それは新聞の持っているもう一つの機能でもある。例えば新聞の一面を見る。きょうのトップ記事は何だというのはあくまで「see」だ。たしかに、受け身の態度がないと、非常に偏屈な人間になってしまう。
 例えば、自分の興味が演劇だとか文学だとする。いかにも主体的で立派そうに見えるけれど、その興味だけ追っていたのでは、実は、目隠しをされた人間になってしまう。だから、紙面から自分が知りたくもないことが飛びこんでくるのは、非常に大事なことなのだ。
 選挙のときに、選挙カーが回ってきてガーガーいう。家にいると、ときどきやかましくてしようがない時がある。それをやめて全部選挙公報やテレビ広報にすれば好きなときにそれを見るし、見たくなければやめればいい。なのに、選挙カーの音はわれわれに強制的に迫ってくる。しかし、よく考えてみると、それがなければ、われわれは新しい候補者を知ることはない。情報がいや応なしに飛び込んでくることは実は大切なことだ。
 ただし、それで終わっていれば、情報ではなくて単なる感覚にとどまる。私の頭の中に何一つまとまったイメージはできない。そこで選択をして、ある点に集中することでほんとうの情報ができる。だから、この受動的情報と能動的情報をバランスよく持っていないと、私たちの頭脳は貧弱になる。
 新聞はそういう性格を持っている。新聞には、編集方針はあるけれども、雑多な情報が並んでいる。一面は政治や全国記事が多く載っていて、経済面があり、文化欄があるというふうに整理はされているけれども、1ページの中には、こっちに殺人があって、こっちに交通事故が載っている。
 さて、そこで目を凝らして私がどっちを一生懸命読むか。この選択も新聞がさせてくれる。そのバランスのよさも、実は新聞にしかない特長だ。
 対してテレビは、ただ見るだけの「see」のメディアだ。情報がどんどん飛び込んでくるという点では、圧倒的にテレビに力がある。しかし、いま見たニュースをもう一度見ようと思っても再放送してくれない。時間をかけてじっくり見ようと思っても、それも不可能だ。テレビの情報はある一定の速さで流れていってしまう。どんな情報がその日に入るか分からないのに、1日中の情報を録画するのはプロの人は別として普通の人にはできない。
 新聞は、それをある程度整理して、無駄なものを切り落として提示してくれるので、われわれはそれを読みながら、受動性と能動性のバランスをとることができる。これも、やはり新聞の特長だと思う。
 これはもちろん、ほかの活字媒体、例えば雑誌とか単行本でもある程度は持っている特長だ。しかし、なんといっても新聞のカバーしている情報のバラエティーさはほかのどんな活字媒体も及ばない。単行本は一つの主題について書いてあるし、雑誌は複数の主題について書いてあるけれど、やはり限度がある。一方、新聞には、行政のスキャンダル、政治家の汚職から、現在の経済状況まで、みんな書いてある。
 そういう多様な情報をまず受動的に受け取って、そして選択ができるということが、新聞の大変大きな機能だろうと思う。
 知ることというのは、もともと矛盾していて、与えられるという側面と選び取るという二つの側面とがある。その与えられる側面と選び取る側面のバランスを取るのに、新聞は非常に有効な手段だと思う。
 だから、将来いわゆる電波媒体がさらに発達しても、むしろ新聞の機能は、逆に強まると思う。つまり、浴びせるような情報の洪水が一方で起こるわけだから、選び取る情報を新聞に期待することになると私は予想している。

情報を共有させる機能

 歴史的に見て日本の新聞に特徴的なのは、宅配制度によって家庭ごとに情報を共有させる機能を持っていたことだ。新聞は、たいてい一家に1紙配達されている。そうすると、一つの新聞の情報が父親、母親、子供で共有され、そこで話題ができる。どこの家庭でも「新聞に載っていたけど」と言って話が始まる。新聞は、日本の家庭をある面で支えている力だと思う。
 私の子供のころは、新聞はまずおやじが読むもので、神聖なものだった。朝パリっとした新聞が、折りたたまれてポストに入っている。朝食のテーブルでおやじの前にそれが置いてある。子供が先にそれを開けたりすると、叱られた。まずおやじが読んで天下国家について知って、それから、子供がおそるおそる見せてもらう。その後に奥さんが家事を終わって読むという順番だった。その時代の家庭秩序を新聞が代表していた。
 いまやそんなのはめちゃくちゃになってしまって、おやじは慌てて朝飯も食わずに家を飛び出し、新聞を真っ先に読むのは奥さんかもしれないが、新聞が今もニュースを通じて個性的な情報を伝達しているのは間違いない。その役割は、歴史を超えて有効だと思う。

新聞社は総合文化商社

 日本の新聞社は総合文化商社だ。世界の新聞にもある程度はその機能があるが、日本の新聞に特に顕著な現象といっていい。読売新聞でいえば、読売文学賞、読売演劇大賞、吉野作造賞もそうだが、賞を出すという形で文化を奨励している。読売巨人軍、読売交響楽団までつくっている。
 また、どこの新聞社にも事業部というのが古くからあって、文化事業をやっている。新聞社の文化事業の歴史は古く、明治の非常に早い段階で、すでに美術の展覧会の主催をやっている。大衆娯楽から高級文化にいたるまで新聞社が文化的事業をやっているというのが、日本の新聞の特長だ。
 それだけでなくその日常的な例が書評欄だろう。販売部数1000万部の新聞に3000部、5000部しか売れる見込みのない本が取り上げられる。これは、大変な社会貢献だ。もし、新聞に書評欄がなくなって広告で知らせるしかなくなったら、日本の出版社の7割はつぶれるだろうと言われている。われわれもよく劇評を載せてもらっているが、私たちが動員する芝居の観客は多くても1万人前後だ。それを1000万部の紙面に載せてもらえることは大変ありがたい。また、逆に、書評や劇評が載るということが新聞にある種の品格を与えていると思う。新聞の朝刊一面下は書籍広告になっていることもそうだ。
 活字離れと言われるが、最近、おもしろい現象が起きている。携帯電話で若者は用事を済まし手紙を書かなくなったと言われていたが、このごろはeメールが中心になってきている。ある限界までエレクトロニクスメディアが発達すると、逆に文字に戻ってくる。文字ができて4000年たつが、エレクトロニクスメディアができてまだ数十年しかたっていない。活字がそんなものに負けるわけがないというのが、私の考えだ。

広告欄とは何か

 私が興味を持っているのは、実は広告欄だ。いったい新聞にとって広告欄とは何であるか。広告から私たちは商品についての情報を得て、日々の生活に役立てているわけだし、ただ見ているだけで面白いという側面もある。その商品をすぐには買わなくても、そこに並んでいる広告で世相が分かったり、流行が分かったりする。新聞広告は記事と同じようにニュースという側面を持っている。
 それから、広告欄には広告主というものが別個にいて、情報を発信しているという側面がある。つまり、それ以外の欄は新聞社が責任を持って発信しているのだが、広告欄に関しては責任者が二人いるという関係になっている。
 私は広告欄も、少なくとも半分、危機的な状況においては100%新聞の編集権が及ぶ世界だと思っている。確かに、悪い商品の広告を新聞が載せて被害が出た場合、だれの責任になるかは難しい話になる。そこまで新聞社が責任を持つべきかどうかは分からないけれど、ある程度は責任を持つべきだと思っている。実際の掲載の判断も、広告審査というものを通して行われているわけだし、新聞の編集権および責任は、やはり広告欄にも及んでいると考えるべきだろう。
 ただ、100%それを新聞社の責任あるいは編集権の下に置くのも面白くない。やはり、広告欄は一種の広場、バザールであって、店を出している個々の企業の自由を新聞がある程度守るという関係であるべきだと思う。
 ただ、極端におかしな広告、あるいはおかしなジャーナリズムの広告を規制するのは正しいと思う。
 広告文化という言い方があるが、デザインから宣伝文句の文体にいたるまで、広告は一つの文化だ。そういう文化の水準を上げる仕事は、もちろん広告会社の貢献は大いにあると思うが、新聞社も広告欄に対してそういう関心を持ってやってもらいたい。

メセナとしての広告

 新聞広告について最後にもう一つ付け加えるなら、広告はある意味のメセナだということだ。
 1000万部の新聞でたった五千部の本の書評を読めるのは、なぜか。それは広告によって新聞社の経営が成り立っているからにほかならない。
 考えてみると、雑誌には広告が載るが、単行本にはなぜか広告が載らない。私は以前から、いまの文庫本や新書はほとんど雑誌に近いから、広告を載せたらどうかと提案してきた。単行本でも長く変わらない商品や企業広告を載せたらいいと前々から主張しているが、なかなか実行する出版社はない。
 結果的に、いま何が起こっているかというと、多くの出版社が経営に苦しんでいる。つまり、情報だけを完全なフリーマーケットに乗せたら、世界中の文化的な情報はなくなってしまうということだ。教育と同じで、情報を純粋な市場競争の中で生き延びさせることは不可能だ。
 それを世界的にどうしているかというと、一つはNHKもBBSもそうだが、税金を注ぎ込む。受信料は税金というと正確ではないが、強制的に取られているということでは変わらない。そうでなければ広告に頼るしかない。
 いま、もし民放に広告がなかったら全滅するし、新聞も広告収入がなければ一部500円ぐらいになるのではないだろうか。だれもそんな新聞は買わない。買う人は、よほどのエリートだけになってしまうだろう。
 ということは、結局、広告を使うか国費を使うかのどちらかで、底上げして成り立っているのが情報産業だということになる。これは、絶対忘れてはいけないことだ。日本でも、美術は少し事情は違うが、音楽や演劇は、基本的にメセナなしには成り立たない。
 その歴史をさかのぼると、ギリシャまで行き着く。ギリシャ時代、すでに国費を注ぎ込んでギリシャ悲劇は行われていた。モリエールもシェイクスピアも、みんな貴族や王様の補助金で上演されていた。もちろん大学もそうだ。それがニュースにまで及んできたのが、近代の新聞ということになる。
 人間というのは不思議な変な動物で、情報を欲しがるくせに、それに正当な対価を払うのは嫌がる。もちろん、広告自体が持っている情報の価値は大きいわけだが、文化的な情報を支えるという役割が広告のもう一つの役割であることは確かだ。

山崎正和氏 Masakazu Yamazaki
劇作家・東亜大学学長。1934年、京都市生まれ。文学から文明論まで幅広い領域にわたる評論活動でも知られる。「柔らかい個人主義の誕生」「文明の構図」など著書多数。




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