特集 2001.11/vol.4-No.8


広告は信頼を回復できるか
 バブルが崩壊して以来、「企業」に対する信頼がゆらいでいる。広告も以前のように効かなくなったといわれる。広告に信頼を取り戻し、消費の活力を呼び戻すために、企業はいま何を考えなければいけないのか。梶祐輔氏に聞いた。
 
――メディアの多様化が進むなかで、消費者も信頼できる情報を見きわめていかなければならない時代になっています。
 逆にいえば、昔ほどマスメディアを使った広告を頼りにしなくても生活できる環境ができあがってきたとも言えますね。商品ごとに専門雑誌もあれば、お店紹介のホームページもある。モノが売れない時代だから、お店に行けば至れり尽くせりの対応をしてくれる。情報がたくさんあって、広告を頼りにしなくても買い物に不自由しない。情報をキャッチする能力さえきちんと身につければ、広告抜きで生きていくことができる世の中になってきました。
 しかし、実際は消費者にも戸惑いを隠せないところがたくさんある。それがモノを買わないというかたちになって、現れてきているように思えてならないですね。それに加えて、最近は狂牛病や国際的なテロなどさまざまな不安要因が重なり、消費はさらに消極的にならざるを得ない状況になってきている。牛肉は買わない。海外旅行は行かない。変なものは食べない。余計な薬は飲まない。とにかく少しでも不安なものは排除するという消極的な生き方を多くの日本人が無意識のうちに選択している。いつリストラされるかもしれないという不安があり、それに備えてモノを買わないでお金を銀行に預けようと思っても、2002年からペイオフが実施されますから、1,000万円を超す預金は保証しませんという話になってくる。
 経済がデフレスパイラルに陥っているとよくいわれますが、マインドも不安なものを排除していこうというデフレスパイラルに陥っている。それが、さらに生活を消極的にさせていると思いますね。
 だから、生活に積極性を呼び戻す必要があるわけだけれど、何を頼りにしていいかわからない。心の中にあるデフレスパイラルを、どうやってポジティブなスパイラルに戻していくか。広告だけの問題ではなくて、消費や生活を考えていく上での非常に大きな問題でしょうね。

――最近の消費や広告の閉塞感の原因を根本的なところから探って行く必要がある?
 原因の一つは、広告が効かなくなったことにあると思います。こういう状況の中でも、なおかつ売れているものはありますが、それは広告や販売努力が実を結んで売れているわけではないのです。消費者の方がまったく自発的に、主体的にその商品を買っているだけなのです。
 消費者を買いたい気持ちにさせるものは何かというと、それはその企業やその商品の「ブランドに対する信頼感」なんですね。消費者の心の中に、しっかりと信頼感を植えつけてきたブランドは勝ち。そうでない商品は負けです。
 要するに、すべては信頼からはじまる。信頼のみが好・不況にかかわらず商品をプリセル(事前販売)するのです。
 バブルが崩壊して以来、企業に対する信頼感が崩壊したことをぼくらは軽視しすぎていたのではないか。信頼のシンボルだった銀行の信用が地に落ちた。膨大な不良債権を抱えて経営が成り立たなくなり巨額な税金が投入されたにもかかわらず、銀行の不良債権は減るどころかどんどん増えている。それが、今の日本の企業の状況をいみじくも象徴していると思うのです。企業全体に対する信頼感がぐらついてきたことが非常に大きな要因だと思いますね。
 しかも、信頼感の崩壊は国内だけでなく、グローバルに起こっています。米国で起きた同時多発テロは、民族や宗教の対立だけではなくて、アンチグローバリズムの動きの一環としてもとらえることができます。20世紀の延長で世界が一つになり、すべての事業が信頼感で結ばれて国際的に展開されていくと楽観的にみんなが思い描いてきた21世紀、国境のない21世紀は幻想に過ぎないことがわかってきた。
 トヨタ自動車の年商は単独決算で約8兆円ですが、それ以下の国家予算しかない国が国連の半分以上を占めている。いまそういう小さい国では、グローバルに事業展開をする企業に対する反感が非常に強くなってきています。いままでは、国際展開をして安い商品をたくさん世の中に送り出すことは善であったわけです。しかし、その一方で、そのツケが発展途上国に蓄積していった。それが国連の過半数の国の意見となって、アメリカや日本のグローバル企業に対する風当たりになって出てきたということだと思います。
 今回のテロは、明らかに20世紀の延長としての楽観的なグローバル主義の行き詰まりを示唆しています。21世紀の初頭にぼくたちが最初に直面した大問題が、信頼感の地球的規模の大崩壊だったわけです。

――その突破口を開いていくのは、容易なことではないですね。
広告の迷走
広告の迷走
 少なくとも、ぼくたちは時代が変わったという気持ちの整理をつけていかなければならないでしょうし、それに対してマスコミや広告は、こういう時こそもっと手を貸さないといけないと思いますね。
 同時に、企業もいつまでもリストラ一辺倒のネガティブな対応をしていても未来はないわけだから、消費者の信頼を回復し、安心して商品を買ってもらえる状況をどうつくっていくかを考えていくことが重要になる。これは、確かに難しい問題です。
 ただ、広告の問題として眺めていくと言えることがある。それは、いままでの拡大型のマーケティングや広告はもうダメだということです。拡大志向のマーケティングや広告ではなく、信頼を回復し、信頼感を定着させていく方向へ大きくハンドルを切ることが必要です。
 いままで日本の企業は、拡大一辺倒で来たわけで、拡大以外に戦略を持っていない。拡大というのは、売り上げを増やすこと、マーケットシェアを高めることです。売り上げを増やすためにめったやたらと商品を開発して、次から次へと世の中に送り出していった。そうすると、見かけの売り上げは増えますし、次から次へ新商品が出てくるから広告も増える。
 とにかく新商品をしゃにむに売り込んで、売り上げが頭打ちになってきたら値下げをして、さらに売り込んでいく。それでもダメだったら、その商品を廃番にして、ニューモデルをまた送り込んでいく。そういう、これでもかこれでもかという商売の仕方については、日本の企業は非常にノウハウを持っています。タイミングを先取りしながらやっていくことにかけては、抜群だったのです。
 しかし、次から次へ新製品を開発するために開発経費がかさむ。それだけではなくて、日本は流通経路が非常に複雑な国ですから、流通在庫がどんどん増えていった。日本の拡大主義の生産形態は、20世紀の終わりのころには、実質的には生産と流通の各段階に在庫を増やすだけになっていたのですね。
 そういうもの作りと供給の形態自身が改まらないと、いまの企業が抱えている問題は解消しない。不良債権というのは銀行だけが抱えているのではなくて、日本のあらゆる企業の業務システムの各段階に隠れているという気がしますね。
 だから、拡大主義は実際にコスト計算をシビアにしてみるとけっして利益の増加につながっていなかった。見かけの繁栄、根無し草の繁栄に企業の当事者は目がくらんで振り回されてきた。そのツケがいまの不良債権になってしまった。
 企業にとって本来重要なのは、バランスシートのボトムラインに出てくる利益です。しかも、「企業は自らの資本コストを上回る収益をあげて企業価値を創造できる」と一橋大学の伊藤邦雄氏は言っていますが、この「資本コスト」というのは配当と株価の値上がり益、すなわちキャピタルゲインの両方を含んでいるのです。株主から資金の提供を受けた企業は、業績が黒字だとしてもそれだけでは十分ではないのです。資本コストを上回る利益を出しているかが問われるのが、いまや世界の常識なのですから。
 その常識は、日本企業にはないのです。いや、この国には、いまだにマーケットシェア至上主義の亡霊が生き残っている。景気が悪くなって、売り上げが低下すると、相も変わらず、とにかく売れ売れという大合唱が起こる。それはすべて空回りになってしまっている。つまり、売り上げ至上主義、マーケットシェア至上主義と決別しなければいけないのだけれど、昔ながらの方法で局面の打開を考えている会社が残念ながら非常に多いのです。
 企業は一日も早く「企業価値を創造」できる体質へ向けて「構造改革」を進めなければなりません。いまのような混乱が続く限りは、消費者やステークホルダーのマインドの中のデフレスパイラルはなくなりそうにありません。
 やはり、社会の基本は相互信頼です。企業は消費者を信頼し、消費者は企業を信頼する。お互いの信頼の前提がぐらついてくると、世の中は立ちゆかなくなりますよね。だから信頼感をきちんと回復するということが、どうしても必要になる。
 そのためには、少なくとも広告はいい加減なことを言ってはいけない。できないならできないと言う。問題があるなら、ここに問題がありますときちんと消費者の前に明らかにしていく。その代わり、ここまではできますということもきちんと伝えていく。信頼感を勝ち取るためにはアカウンタビリティー、まずきちんと説明をしていくところから出発していく必要がある。いまは、そういうところから石を積み直していくより仕方がないのではないでしょうか。

―― 一度問題を起こしただけでブランドが崩壊するような事件が次々と起こっています。
 一回問題が出ただけで、100年間の努力が無に帰してしまう。ブランドとはそういうものです。海外の有名ブランドは、こんなに景気が悪い日本でもよく売れていますが、彼らは危機を排除するためにハンパではない努力をしてきた。ヨーロッパの有名ブランドは、そういう危機管理のノウハウを持っていると思うのです。
 ブランドを維持していくためには、企業はそれだけの犠牲を払わなければならないわけです。たとえば、売れるからといって調子に乗ってたくさんつくり続ければ、結局はそのブランドの価値が低下する。目先の拡大化の欲求に日本の企業はつい引き込まれて、まさに多死多産型の道を走ってきた。その誘惑を毅然として退けて、一定数をきちんとつくり続けることに徹しきる。ブランドを確立するには、いままでの日本型経営の発想の大転換をしなければ、成り立たない気がしますね。
 ブランドは、突き詰めれば信頼感に尽きます。信頼のないブランドはあり得ない。その信頼がぐらつくと、ブランドは崩壊するわけです。ブランドと信頼感は表裏一体のものです。

――広告はモノを売るためのものと言われる一方で、最近はブランド広告が重要だといわれている。矛盾していませんか。
「売る」広告  1983年にアメリカのデビッド・オグルビーは「Ogilvy on Advertising」という本を書きました。この本の根本にある思想は、広告はブランドをつくるためにあるということでした。ところが日本では、この本は「『売る』広告」というタイトルで出版されました。もっとも、「売る」で間違いではないのです。オグルビーが言ったのは、右から左へ「売る」のではなく、ブランドを確立して長期にわたって安定的に「売る」ということだったのですがね。ぼくたちは広告を即販売の手段とする先入観にとらわれて、この本を間違った読み方をしたみたいです。
 これはほんの一例に過ぎませんが、ぼくたちは、これまで広告に対してとてつもない誤解をしてきた。そういう誤解のまま、広告も売り上げ至上主義、マーケットシェア至上主義で50年やってきてしまったという気がしますね。
 また、日本の広告は商品には差がないという前提でつくられていますが、アメリカの広告は商品の「小さな差」を「大きな差」に見せる努力をしている。どちらの議論が正しいかというよりも、大事なのは商品の「差」に対する考え方が日米では違うということです。
 よく「ニッチ」といいますが、日本では「すき間」「すき間探し」といった意味で用いられています。これも元々の意味とは違っています。初めにぼくがニッチという言葉に出会ったのは、アメリカのロー・オルダーソンの「マーケティング行動と経営者行為」という本です。オルダーソンの言うニッチとは、「市場の中で企業や商品が安住できるわずか一点の場所を発見すること」です。彼の文脈に即して言うなら、「わずか一点のニッチ」を発見することが、差別化を実現することだった。差別化とは「差」を問題にすることではなく、その企業や製品の安住の地を見いだすことなのです。
 そういうように、今まで日本で言われてきた広告理論、マーケティング理論には、自分たちに都合のいいところだけをつまみ食いしてきたところがあった。企業が売り上げ至上主義に走っていく時に目先の売り上げは増えるけれども、実際は企業のためにならないことを広告会社はきちんと言うべきだった。

――認知率を上げれば商品が売れる、CMがヒットすれば商品は売れるとこれまで言われてきました。
 入り口のところで認知を上げれば、効果が低減していくにしろ、最終的に買ってくれる人が増えるという理論は確かに間違いではないと思います。だけど実はいま、認知と行動はリニアにつながってはいない。商品を認知した人のうちの何人かは必ず買ってくれるという仮説が成立しなくなっています。
 CMがヒットすれば必ず商品が売れるというのも、同じロジックです。実はこれは、新規ユーザーを念頭に置いている時代にできた仮説だと思うのです。ところが今は、新規ユーザーはもはやいないに等しい。マーケットが無限に拡大していく前提がない限り、新規ユーザーというのは意味がないわけです。
 どの業界の人も言いますが、現実にはほとんどの商品は、2、3割にしか過ぎないヘビーユーザーが売り上げの7割から8割を占めている。いまのように世の中の価値観がぐらついてくると、特にそういう傾向が強くなってきます。
 一握りのカスタマーが、商品の売り上げの大半を作り出している状況の中では、新規ユーザーというのはすでにあまり意味がないのですね。にもかかわらず、そういう新規ユーザーねらいの認知を稼ぐ広告やヒットするCMに広告主の意識が向いているのは実はとんでもない間違いだという気がします。
 それは、拡大主義の、まだマーケットがどんどん拡大していく時代の幻想が、いまだに残っているということに過ぎないのではないでしょうか。そういう点について広告会社がしっかりした意見をいうべきだと思うけれど、彼らも商売で企業の言うとおりにやってしまう。だから、話題性ねらいのCMが、いまだに後を絶たないんですよね。

――そういう時代の新聞広告の役割をどう考えるべきだと。
 拡大型の社会ではテレビが有効だったけれど、いまのような状況になってきたときに、CMをヒットさせることだけを考えていく広告は無意味なんだということを認知してもらうことが、大事だとぼくは思います。
 テレビほど派手ではないけれども、新聞が持っているきちんとメッセージを伝達していく機能を改めて評価し直す必要があるのです。
 いまだに企業は記者発表を重視しているところが多い。新製品の発売開始にあたっては、先に新聞社やテレビ局を集めて記者発表をして、そのあと、その翌日に広告が掲載される。なぜならば、広告が先に出ると記事を書いてくれないからだという思い込みが、企業の側にも非常に強いからです。
 少し思いきった言い方をすれば、ぼくは企業は記者発表というかたちにこだわるのはおかしいと思っている。新商品を市場に導入するときに大事なのは、先ほどのロー・オルダーソンの言い方を借りれば、「たった一点のニッチをきちんと消費者の前に提示すること」です。その新製品のスペックがどうだとか、どこがどう改良されたといった広報の発表を新聞記者が整理しただけの情報をいまの消費者は知りたいわけではない。その商品がどういうかたちで、この世の中に安住の地を見いだしていけるかという点を伝えることが、いちばん大事なはずなのです。広告というかたちでなら、企業はもっと「熱い思い」を込めてものを言うことができます。これからは企業がお金を払って、きちんと広告で言いたいことを言うべき時代になってくると思っています。
 その辺から考え方を変えていかないと、新聞広告は変わってこないのではないかと思いますね。五十年前の手法がそのまま生き残っていることに、非常に問題を感じます。
 それは、広告ほど広告主が自分の気持ちを主張できる場所はないからです。残念ながら、記事は新聞記者が書くものだから、その思いは伝わらないとぼくは思っている。
 商品広告については特にそうだと思います。いまの商品はそれがどんな商品なのか、まったくわからない。それは、やはり商品が安住の地を得てないということだと思うのです。宙に浮いている。ただフワフワとたくさんのモノが浮遊しているだけで、それを勝手に消費者に選べと言われても、消費者には違いがわからない。それをきちんと消費者に伝えることは、企業の仕事、義務ではないでしょうか。

――これからはリレーション型のコミュニケーションが重要になると言われています。
 商品を知ってもらうことが大事だったこれまでの広告は刺激型のコミュニケーションでしたが、これからはリレーション型のコミュニケーションに進化していくと確かに言われています。リレーション型のコミュニケーションとは、まさにこれまでぼくが言ってきたことです。
 企業がきちんとメッセージを発信して、消費者とのパイプを太くしていく。それを継続して積み重ねていくことで、商品に対する信頼感が生まれてくる。そういう信頼感があって、消費者はモノを買うということだと思います。
 消費者は、おもしろい広告をけっして受け入れないわけではない。ぼく自身も、目新しいものやおもしろいものには確かに興味は持つ。でも、それは必ずしも買うことと同じではない。いまの消費者は買うときはまた違う論理で動く。買うという行動を起こさせるのは、やはり消費者との信頼関係をしっかりつくることに尽きると思います。
 テレビCMはこれまでの企業の市場拡大志向と絡み合って成長してきました。売り上げ至上主義、マーケット至上主義の申し子みたいなものです。売り上げ至上主義が陳腐化しているとしたら、テレビの危機はかなり深刻なはずです。企業がブランドを意識し始めると共に、いまのテレビ中心の広告のあり方というのは、変わっていくように思えてならないのです。

■ 梶 祐輔
梶祐輔氏 大阪府生まれ。早稲田大学文学部仏文科卒業。電通を経て、1960年日本デザインセンター創立に参加。コピーライターとして、アサヒビール、野村証券、トヨタ自動車など各社の広告づくりを担当。近著「広告の迷走」(宣伝会議)では、日本の広告が真に果たすべき機能について辛口の提言をしている。



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