特集 2001.11/vol.4-No.8

「信頼」とは何だ「信頼」とは何だ
 メディアの信頼度調査では8割を超す人が信頼するメディアとして新聞を挙げている。9月11日の米国同時多発テロ発生以降、何を担保に信頼について語るべきか、その言葉を失ったようにみえる。現代社会にとって信頼とは何なのか。そして、いま、企業や広告、メディアに求められている信頼とは何なのか。さまざまな角度からみていく。


 日本はこれまで日本の治安のよさを含めた安全、安心社会と同じ意味で信頼社会と言われてきた。社会心理学者の山岸俊男氏(北海道大学大学院文学研究科教授)は、これまでの日本は集団主義的な安心社会であり、それが崩れつつあるいまこそ信頼社会を生み出す好機だととらえる。山岸氏に寄稿してもらった。
 
 日本人はいま、「安心神話」の崩壊を目前にして呆然と佇んでいる。銀行や大企業という「大樹」の陰で安穏としていた日本人は、その大樹の幹が空洞で、簡単に倒れてしまうかもしれないことに気づいてしまった。
 女性が夜中に一人で街を歩けるという日本の「安全神話」も、凶悪犯罪の急増を告げる報道を前に急激に色あせてきた。この急激な変化は一般に、日本的な信頼社会が崩壊しつつあることの現れであると考えられている。しかし筆者はこの変化を、逆に、日本に信頼社会を生み出すための絶好の機会だと考えている。すなわち現在崩壊しつつあるのは集団主義的な原理にもとづく「安心社会」であり、安心社会の崩壊は信頼社会を生み出す絶好の機会だという議論である。
 この筆者の議論を理解するためには、これまでの安心神話が、「日本的な」社会や経済のシステムによって支えられていたことを理解する必要がある。この「日本型システム」とは、集団主義の原理によって構成されているシステム、つまり、特定の相手との間に安定した、そして外部に対して閉ざされた相互拘束的な関係を形成することで、その関係内部での安心と相互協力を維持するシステムである。



 ここで、「安心」と「信頼」との区別を理解するために、他者一般に対する信頼感の日米差について考えてみたい。筆者はこれまで、日本人とアメリカ人を対象とする一連の調査研究や実験研究を行う中で、アメリカ人のほうが日本人よりも他者一般に対する信頼感が高く、見知らぬ人間に対する信頼を必要とする行動をとる傾向が強いことを示してきた。この結果は、夜になると街中も歩けないようなアメリカの不信社会にくらべ、日本社会は相互の信頼関係で成り立っている信頼社会であるとする「常識」からすれば、「常識はずれ」の結果である。間違っているのはこの「常識」なのか、それとも調査や実験の結果なのか?
 「常識」も調査や実験の結果もいずれも間違っていない――これが、この問いに対する筆者の答えである。しかし、そんなことがあり得るのだろうか?「常識」は日米間の信頼レベルに関して調査や実験の結果と正反対の「予測」をしており、従って、その両方が同時に正しいことなどありそうにない。しかしこの疑問は、「常識」が想定している「信頼」の意味と、調査や実験で定義された「信頼」の意味が異なっていることを理解すれば直ちに氷解する。日本社会は信頼社会でありアメリカ社会は不信の社会であるとする「常識」で想定されている信頼は、「安心していられること」と同義である。アメリカの大都会では、真夜中の街中は安心して歩くことができない。そうしなくてはならない事態に陥ったとしたら、まわりを警戒しながらびくびく歩くだろう。
 これに対して筆者たちが行った調査や実験で検討されたのは、他者一般の信頼性についての信念、つまり人々は一般に正直であり信頼に値するという信念である。さて、この意味での高信頼者つまり人間は一般に信頼できると考えている人は、真夜中のニューヨークのダウンタウンを平気で一人で散歩するだろうか? 「常識」で想定されている信頼と実験で検討された信頼とが同じであるとすれば、一般的信頼の高い人は真夜中のニューヨークのダウンタウンを平気で散歩するはずである。しかし、いくら人間性一般についての信頼感の高い人でも、ダウンタウン・ニューヨークを真夜中に一人で散歩することはないだろう。



 この例だけからでも、安心していられる環境が存在することと、他人を信頼することの違いがわかるだろう。真夜中のダウンタウン・ニューヨークは、安心していられる環境ではない。しかしそのことは、真夜中のダウンタウン・ニューヨークを歩いている人が、他人を信頼する高信頼者だということを意味しているわけではない。同じように、犯罪の少ない日本では、アメリカにいるよりは安心していられる。しかしそのことは、日本人がアメリカ人よりも他人一般を信頼していることを意味しない。この点を理解すれば、先に述べた「常識」と調査や実験の結果の不整合も納得できることになる。つまり、日本社会は人々が安心していられる環境を提供しているが、そのことは日本人が他人を信頼していることを意味していないからである。
 このように、「信頼」には、まったくといっていいほど相互に独立した意味が含まれている。そして「信頼」の多義性は、上述の「常識」と実験結果の間のパラドックスを生み出しているだけではなく、研究分野を超えた信頼研究者――特に心理学者と社会科学者――の間の交流を困難にしている。経済学者や経営学者、あるいは政治学者などによる信頼研究にはゲーム理論を基礎として行われている研究が多いが、ゲーム理論から見た信頼は、ここで「安心できる状態」と呼んでいるものに相当する。例えば、十分な担保を提供している相手は信頼できる相手だということになる。



 この意味での信頼と、我々が直感的に信頼と呼んでいる状態との間の大きな溝があることを示すために、筆者は「針千本マシン」なる想像上の装置を考案した。この装置は、手術により喉に埋め込まれ、嘘をつくたびに千本の針を装着者の喉に送り込むことになっている。我々は、この装置を装着した人間が、例え詐欺罪に対する罰として強制的に装着させられたことがわかっていたとしても、少なくとも意図的には嘘をつかないと確信できる。しかし我々は、針千本マシンを装着した詐欺師を信頼するとは言わないだろう。その理由は、信頼の心理学的な意味での核心が、単なる予測を超えた部分にあると我々が考えているからである。経済学者を中心とする社会科学者にとっての信頼の核心は、社会的不確実性――社会的な関係の中で他者に搾取され酷い目にあってしまう可能性――の縮小にある。この意味では、針千本マシンは究極の信頼形成装置である。これに対して心理学者にとっての信頼の核心は、社会的不確実性が存在するにもかかわらず相手の人間性を信じることにある。
 ここで、他人の心の中を見通すことのできる神通力の持ち主を考えてみよう。そのような神通力の持ち主には、他人にだまされて酷い目にあう可能性、すなわち社会的不確実性は存在しない。また、他人を信頼すべきかどうかを考える必要もない。もしこの点をあなたが納得するなら、あなたは心理学的な意味で「信頼」という言葉を使っていることになる。もしあなたが上述の経済学的な意味で「信頼」という言葉を使っているのなら、神通力を持った人間は他人を完全に信頼している人間と定義されるだろう。



 先に述べたように、少なくとも心理学的な観点からすれば、信頼は社会的不確実性を前提としている。社会的不確実状況では、相手はあなたを裏切ることで利益を得ることができ、かつ相手に裏切られたときの損害の大きさは、あなたの対応行動に依存している。この状況で相手が信頼できないのなら、相手に裏切られた場合の損害を最小にする行動を取るのが賢明だろう。できれば、そのような関係からは抜け出すのがよい。しかし同時に、この相手との関係から得る利益の大きさも、あなたの行動に依存している。すなわち、相手があなたの信頼にこたえた場合には、あなたはその関係から大きな利益を得ることができる。(もちろんここでいう利益や損害は、金銭的な利益や損害、あるいは物質的な利益や損害だけではなく、愛情とか満足とか幸福とか失望とか悔しさといった心理的な利益や損害も含んでいる。)つまり、あなたの行動如何によって、相手が裏切ったときの損害と相手が信頼にこたえてくれたときの利益の双方ともが、大きくなったり小さくなったりする。
 この状況で、相手に裏切られた場合の損害を最小にする(と同時に、相手との関係から得られる可能性のある利益も最小にする)行動は、安心を求める行動である。例えば、他人とのかかわりを全く断ち切った世捨て人は、他人から酷い目にあわされることを心配する必要がない。それほど極端ではなくても、安心していられる身内や仲間内の人とだけつきあっていれば、そこでは社会的不確実性がほとんど存在せず、安心して暮らすことができる。筆者らが行った実験でも、社会的不確実性に直面した人々は、特定の相手との間にコミットメント関係を形成し、同じ相手とだけ付き合う傾向が示されている。
 このような、特定の相手との付き合いを通して社会的不確実性を縮小し安心を求める行動は、いわゆる「集団主義的」な行動原理だと言えよう。日本は信頼社会だという最初に紹介した「常識」は、実は、このような集団主義的な原理にもとづいて、特定の関係や集団の内部で社会的不確実性が縮小され、安心が提供されている状態を意味しているのだと考えられる。
 しかしこの集団主義的な安心の追求は、特定の関係や集団の外部に存在する様々な機会の放棄を意味している。例えば、異性との関係で傷つくことを恐れるあまり付き合いを避ける人は、異性との付き合いから得られる様々な可能性を放棄している。筆者は経済学者にならって、安心の追求のために放棄された様々な機会を「機会費用」と呼んでいる。機会を放棄することで安心を獲得するのが、いわゆる集団主義的な行動原理だと言ってよいだろう。



 集団主義的な原理を採用し、安心していられる社会環境を築いてきた日本人は、そのためのコストにこれまで気づかないでいた。しかしいま日本人は、集団主義的な原理が、特定の関係や集団の外部に存在する様々な機会の放棄を意味することに気づきはじめた。
 これまで集団主義的な行動原理が、集団内部での協力関係と集団への忠誠心の促進等を通して日本経済の発展を支えてきた点については、多くの人が同意するだろう。しかし現在では、その同じ原理が足かせにと変わりつつある。その理由は、集団内部での安心を購入するコストが、あまりにも大きくなったからである。つまり、集団の外部に様々な有利な機会が生まれるようになるにつれ、集団を外部に対して閉ざしてしまうと、あまりに多くの有利な機会を放棄せざるを得なくなったからである。
 従って、現在の日本社会に必要とされるのは、集団主義的な安心追求にかわる原理、つまり関係を外部に対して閉ざすことで社会的不確実性を縮小するのではなく、社会的不確実性の存在を前提とし、機会を生かすための適切なリスクを負う中で、他者との間に信頼関係を形成していく原理である。
 しかしこのリスク・テーキングは偶然に身を任せることではなく、ケインズが企業家の資質として挙げている、豊富な知識や情報に裏打ちされた冒険としてのリスク・テーキングである。例えば、談合や事前の調整などの日本的商慣行に慣れ親しんできた企業が、集団主義的な安心の追求をやめ、規制緩和と情報公開が生み出す新しい機会を生かすようになるためには、リスク・テーキングに先立って、情報を発信しまた読み取る力である「社会的知性」を獲得していく必要がある。
 そして、そのような社会的知性を身につけることは、企業にとってだけでなく、我々一人一人にとっても、これからますます大切になっていくだろう。筆者たちが行った実験の結果は、他者一般を信頼する傾向の強い高信頼者のほうが、その逆の低信頼者よりも、他者の信頼性を示唆する情報に敏感であり、また他者が信頼に値する行動を取るかどうかを正確に判断できることを示している。
 このことは、社会的不確実性のもとで信頼関係を形成するためには社会的知性が必要とされることを意味している。長い目で見た今後の日本社会に必要とされているのは、安心社会への回帰を試みるのではなく、社会的知性に裏打ちされた社会的リスク・テーキングを通しての信頼関係の形成を目指すことであり、そのために必要な社会制度を整備することにあると筆者は考えている。

■ 山岸 俊男
山岸俊男氏 1948年名古屋市生まれ。一橋大学社会学部卒、同大学院社会学修士課程修了。ワシントン大学社会学博士。北海道大学文学部助教授、ワシントン大学社会学部助教授を経て、現在、北海道大学大学院文学研究科教授、社会心理学専攻。著書に「信頼の構造」(東京大学出版会)、「安心社会から信頼社会へ」(中公新書)、「社会的ジレンマ」(PHP研究所)など。



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梶 祐輔→


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