特集 2000.12/vol.3-No.9

二十世紀とは何だったか
メディアは広告をいかに変えてきたか
 20世紀は広告の世紀でもあった。高度経済成長を経て、日本は世界で2番目の巨大な消費市場となった。その成長を支えたのが広告だった。広告の発達は消費者(受け手)も成長させ、それがまた広告を変えていった。20世紀の広告はどう変わってきたのか。関西学院大学助教授の難波功士氏に聞いた。
 
広告の美学派と工学派

――広告が本格的に発展するのは、やはり戦後ですか。
 1953年から民間テレビ放送が始まっていますが、40年代、50年代は、新聞広告が中心です。 
 新聞社は戦前からすぐれた広告に対する表彰を行っていた。毎日広告デザイン賞は31年から始まっています。当時の大阪毎日新聞社では商業美術振興運動を展開し、新聞社がスポンサーになっていい図案、デザインを表彰していました。
 その背景には、20年代、30年代の新聞各社では紙面の浄化が課題だったことがあります。紙面浄化には、誇大広告や虚偽の広 告を載せないなどの倫理的な意味とビジュアル的にきれいな広告を載せようという二つの意味がありました。
赤玉ポートワイン

 そのころの日本は、消費社会の勃興やメディアの普及期でもあり、人々の間に「それは広告である」という共通認識が生まれてきていました。駅など公衆の場にポスターをはるスペースが確保され、新聞も記事と広告が同じ書体・レイアウトから脱して広告枠という考え方が出てきた時代です。
 それを逆手に取ったのが、赤玉ポートワインの新聞広告です。この全ページ広告は、ダミーの記事の上に書きなぐったような赤い文字で「赤玉ポートワイン」とある。見るほうはぎょっとしますよね。ぎょっとするのは、常識の逆をいっているからです。新聞の中で、これは記事、これは広告という約束をみんながわかり出したからできる手法です。
 この広告は20年の作品ですが、そのころから始まった新聞社の広告賞は、50年代まで日本の広告美術向上の中心的な役割を果たします。

――新聞社の広告賞の後に生まれてきた広告賞というと。
 60年代からは広告制作者の団体である日本宣伝美術会(日宣美)が広告賞の中心になっていきます。日宣美は51年に設立されたデザイナー、アートディレクターの集団で、最初は会員の作品展だったのが、53年から公募展になり、日宣美展で新人賞をとることがデザイナーの登竜門になりました。しかし、学生運動の最中に日宣美はデザイン界の権威と目されたこともあり、70年に解散します。
 日宣美の後、57年にADC賞(東京アートディレクターズクラブ)、61年にACC賞(全日本シーエム放送連盟)、62年にTCC賞(東京コピーライターズクラブ)と、現在もある広告賞が誕生しています。日宣美がかなりアーティスティックな価値基準で広告を見ていたのに対して、ADCは広告ビジネスによった価値基準を持っていた。アートディレクターは単にデザインやレイアウトをする人ではなくて、広告制作の全過程を統括し、広告ビジネス全体をマネジメントする人だと主張して、アートディレクター制を日本に定着させようと努力した。しかし、日宣美が解散した後は、テレビCM制作者も取り込んでアーティスト志向を強め現在に至っています。
 広告賞は、50年代までは新聞社が中心でしたが、60年代から広告制作者の団体が広告賞の中心になっていく。70年代以降はACC、ADC、TCCとそれぞれすみ分けて、その中で技術の優劣を競うことになっていきます。

――日本の広告はどちらかと言えば、一貫してアーティスト志向が強かった?
 広告の価値基準には、美学派と工学派という分け方があります。美学派は審美的な評価、美しい、美しくないというアートによったところでの価値基準を持ったデザイナーを言います。工学派は、工学や広告学、マーケティングまで含めた広告の評価で、どう効くか、人々をどう動かせるかの視点で広告を考える。両者とも20年代に出てきた考え方です。この時期にすでに広告学がアメリカから輸入されていて、デザイナーは単なる絵描きではなくビジネスマンだと考える人もいた。60年代にも工学派の復活はありました。マーケティングやPRをアメリカから輸入して学んだ人たちです。結局それは実らず、そういう人たちと広告制作者の世界は別ものというすみ分けが進んでいったのが70年代以降です。
 美学派と工学派が混とんとしながらせめぎあっていたのが60年代までだとすると、70年代以降は制作者たちの団体が、どの広告が美しい、美しくないと議論して制作者の中で決めていく世界が広告業界の中に確立した。それが、広告が最近閉塞してしまった一因だと思います。

広告のエンターテインメント化

桃屋
――テレビCMが台頭してきたのは?
 60年代以降ですね。50年代のテレビCMは、VTR技術が未熟だったため、ほとんどのCMが生コマで行われ、現在見ることができません。そういう生コマの系譜を引きつつ、そこから抜け出した画期的なCMが、60年の桃屋の「江戸むらさき剣豪編」だと思います。三木のり平がしゃべっているだけのところは生コマと同じようなつくりですが、それをエンターテインメントにもっていった。
 テレビCMは、生コマだけしかできない技術的な制約を超えたあたりから、面白くなってきます。20年代は広告が世の中に行き渡った時代ですが、60年代は、テレビCMによって広告の流通量が急激に増えていった時代です。
 テレビが出てきたことによって広告の概念も変わった。広告がそれまでの理性的なものから、エンターテインメントで人をひきつけるものになっていった。もちろん、それまでのグラフィックでもエンターテインメントに徹したものはありましたが、広告が社会の娯楽になっていくきっかけは、テレビがつくっていった。
 そして、カラーテレビの普及も手伝って67年に登場したのが、レナウンの「イエイエ」です。それまでのCMの制作者はラジオから移ってきた人たちが多かった。そういう音やせりふでまずCMの構成を考えるシンギングコマーシャル風、もしくは生コマ風の制作作法の呪縛から段々解き放たれ、映像で冒険もできるし、音と映像を離してみたり、リンクさせてみたり、いろいろな実験をしながら面白いことができるようになったのが「イエイエ」からだと思います。

レナウン

――テレビCMの世界には「イエイエ以後」という言い方がありますね。
 それ以前、60年代前半のCMは、今見ると間延びした映像に間延びした音で、商品をそのままストレートに褒めている。ある意味では、わかりやすい。テレビを見ること自体がものすごくエキサイティングだった時代ですから、人々は何にでも反応した。
 テレビが定着して、テレビを見ることがそんなにエキサイティングな経験ではなくなってきた60年代半ば以降に、CMをどれだけ面白くするか、エキサイティングにしていくかという意識が生まれはじめたと思います。テレビの世帯普及率は当時すでに95%になっていました。

目立つCM、話題になるCMへ

――七〇年代のCMでは?
 個人的な思い入れかも知れませんが、74年のサントリーの「雁風呂」です。これほど商品(角瓶)と何の関係もないCMはそれまでなかった。60年代のCMは商品が前面に出てきて、商品のことをきちんと言おうとしていたのですが、これ以降は商品は最後に落としどころとして入っていればよくて、その前にどれだけ面白いことができるかを追求しはじめた。「雁風呂」は、その初期の広告だと思います。

――「もの離れ広告」の先駆けでもあった?
 「雁風呂」は商品はとりあえず置いておいて、目立つCM、話題になるCMをつくればいいとなったCMです。この方向性は80年代以降も続いていきます。
サントリー
 80年代前半では富士写真フイルムの「それなりに写ります」が、エポックとして挙げられると思います。サントリーの「雁風呂」は、まだ商品をよく見せようというエクスキューズがありましたが、このCMは商品を突き放している。これまでのCMなら「このフィルムを使えばきれいに撮れる」ことを強調するはずですが、このCMでは「それなりにきれいに撮れます」と、ある意味真実を言っている。広告だからといって広告主や広告商品のことを「がんばって褒めなくてもいい」「褒めたところでだれもそんなことは聞いていない」という受け手側の反応を前提につくられている。広告だから商品を褒めるのは当然だろうと世間が思っている常識に対して、広告商品を突き放した言い方をすることでエンターテインメントになっている。80年代前半はテレビCMの黄金期と言われていますが、このCMはその代表作だと思います。景気も上向きでよくなっていた。「雁風呂」もいくところまでいったという気がします。

――85年には日本は円高不況に襲われ、その後バブル期を迎えますね。
 80年代も半ばになると、マスメディア上の広告表現がどんなに面白くても、そんなに世間は面白がらなくなった。世の中は別のことを面白がり出します。それが、80年代後半にあったマーケターブームです。広告を含めてマーケティングの仕組み、仕掛け、企業が何を考えて、その商品をどう市場に送りだしているかまで、広告の受け手は理解するようになる。
 80年代前半にはコピーライターブームがあり、後半は空間プロデューサーブーム、仕掛け人ブームが起こる。トレンド情報番組やトレンド情報雑誌がいっせいに出たのもこのころです。普通の人までマーケティング用語を使って、「こういうターゲットをねらっているから、この広告はこう作っているんだろう」と言い出し始めた時代でした。
 また、バブル最盛期には、企業がメセナやフィランソロピーに積極的に取り組み始めた。バブルによる金余りもありましたが、広告論的に見ると、世間が「広告だからそう言っているんだろう」ぐらいにしか受け止めなくなってしまった状況の中で、広告ではないルートで商品や企業の情報を出していったほうが、みんな聞いてくれるし、面白がってくれるということがあったと思います。

成熟した広告の受け手

――バブルは高度経済成長の限界でしたが、面白広告にも限界が見えてきた?
豊島園
 80年代の面白広告の行き着く先が、90年の豊島園の「史上最低の遊園地」です。70年代にテレビCMを中心に広告が定着しだして、それをひっくり返すことによって変な面白さを追求したのが80年代だとすると、この広告は、「世間のみんなは、これが新聞広告である以上、豊島園が何を言おうが最終的には豊島園のことをよく言おうという意図を持ってやっている」ことをわかりつつ、こういう悪ふざけも「別にいいよ」という人たちがいることを想定している。説明するとくどくなりますが、こういうジョークを理解もするし、許容もする人たちがいることをこの広告ははっきりさせたと思います。


――テレビCMでは?
 90年代の新しい動きとしては、佐藤雅彦の「ポリンキー」があります。手法的にはシンギングコマーシャルと言われる三木鶏郎の現代版で、60年ごろのCMの焼き直しだと言う人がいます。しかし、ほとんどのCM制作者がまだ新しい映像表現を模索している時期に、彼だけは「60年代のようにはだれもテレビを一生懸命見ていない」という地点に立っていた。テレビは家に帰ったらスイッチをいれてBGM代わりに流すもので、「視覚媒体ではなくて聴覚媒体なんだ。ラジオと同じものだと考えたほうがいい」という割り切りをした画期的な広告だったと思います。
 もう一つは、88年から5年間続いたJR東海の「クリスマス・エクスプレス」です。連続トレンディードラマ風CMも90年代に入ってからの大きな特徴です。単発で面白いCMをつくるよりは、みんながいいと感じるCMをシリーズ化してつくっていく手法です。
 80年代後半は、冠イベントやイベントショップなど広告媒体が広がっていって、マスメディアの枠を超えて広告が現実の社会を浸食していく「現実の広告化」という現象が起こった。JR東海のCMは、マスメディアの上にとどまりつつも、これに共感したり、ある種の現実をつくっていった。

東海旅客鉄道

――現在の消費者の広告の受け止め方はどう変わってきたと考えていますか。
 80年代に「広告をどう思いますか」と聞くと、「好きだし一生懸命見ている」「あの広告が面白い」と熱く語る人がいる反面、「嫌い」「あんなものは資本主義の手先だ」という意見が出てきた。
 今は、「広告もあればあったでいい。それに振り回されるわけではないから」という受け止め方だと思います。広告を無視するわけではなく、必要なときは参考にするが、それが情報のすべてだとは思わない。別のルートでその企業や商品に関する情報を得て、広告を参照しながらこちらで考えますという態度になってきた。

――広告表現も、ある種の壁に突き当たっている?
 新しい手法が出てくるというよりは、今までの表現手法やメディアの組み合わせが変わってくると思います。とんでもなく新しい面白い広告が出てくる可能性は少ない気がします。かといって、だれも広告を見なくなっているわけではないし、否定しているわけでもない。あいまいな状態に今ある気がします。

――メディアが多様化していくなかで、広告はどう変わるかも見えていませんね。
 単独のメディアを使って一つの広告で何かが動くとか、売れることはないと思います。今の広告を作っている人たちも、それなりにいろいろな広告表現が身の回りにある環境で育ってきていますから、その中での順列組み合わせ、このクライアントのマーケティングカラーにはこのやり方という組み合わせのうまさになってくると思います。

共犯関係としてのブランド

――ベネトンの広告は、これまでの広告の中では特異な存在だと思うのですが。
 最近の人は、自分の好き嫌いをストレートに言わないで、「世間一般はこう思っているんじゃないの」と人ごとのように自分の意見をいう。「ベネトンならこれでいいんじゃない」という見方をする。ナイキの広告にもそういうところがあります。
 ベネトンはこの春、原宿の子供たちをビジュアルにした新聞広告を出しています。それを見て40代、50代の新聞読者は、舌にピアスをしている子供たちに対する顰蹙(ひんしゅく)は語りますが、「今までのベネトンのイメージと同じ方向性の広告になっているからベネトンとしては成功なんだろうし、わたしたちがとやかく言うことではない」という言い方をする。また「こうやって話題にすること自体、もうベネトンの策の中にはまってるのかも知れませんよね」という反応をするようになっている。怒ったら怒ったで、ベネトンの策の中に入っているのだし、それはそれで許容している。ベネトンやナイキはそういう人々との共犯関係をつくれたブランドだと世間は思っている。
 ベネトンやナイキのように社会問題に対してセンシティブな会社というイメージをつくっていくために広告を使うやり方は、新しい流れかも知れないですね。ナイキの実態が、アディダス、リーボックの製品とどれだけ違うか。ナイキというブランドに込められたストーリーの持たせ方やナイキを考えるときにみんなが準拠するものをうまくつくりあげている。
 90年代はブランド戦略が言われた時代でしたが、ブランド構築は広告一発でどうなるものでもなく、広告を重ねて出稿するとか、選手のスポンサーになるなど広告以外の活動も当然絡んでくる。「○○ってこういう会社なんだ」というストーリーをかなりの人たちに植え付けられたところだけが勝ち残っている気がしますよね。
 80年代は単品の商品に関しての評価をどうつくるかが、大きな問題だった。それが90年代は、その企業のやろうとしていることに共感できるとか、わかるかということを、先につくることが重要になってきたということだと思います。

多メディアが併存する時代へ

――マスメディアの今後はどうなると思いますか。
 今までのようなマスメディアの使い方はなくならないと思います。一律に情報を流すのに適したメディアを利用しなければならない企業や商品がなくなるとは思えないし、マスメディアはマスメディアであり続けると思います。しかしその一方で、ある特定の人たちだけに売れればいいものもある。それはまた別のミディアムなメディアや口コミで売れていく。さまざまなメディアが併存する状況になると思います。
 数年前、関西大学の総合情報学部の人たちがやった実験の報告書に面白い結果が出ていた。この実験は総合情報学部の学生を募って、テレビ、パソコン、eメール、携帯電話などのメディアの使用を1週間だけそれぞれの学生に一つだけ禁止させて、何がいちばん嫌だったかを聞いた。実験前は携帯電話だと予想していましたが、結果はテレビでした。理由は、家庭や学校で話す共通の話題がなくなるということでした。サークルなど狭い世界で生活している分にはいいが、親とも話さなければいけないし、それほど親しくない友達とも話す機会はある。そういうときは、テレビの話題になるということでした。
 つまり、テレビ、あるいはもう少し社会的なニュースなら新聞は、日ごろはそんなに深くコミットメントしないメディアだが、ときどき見ないと共通の話題についていけない媒体としてある。同じように、幅広くみんなに知ってもらいたい情報や、コカ・コーラ、P&Gのように全世界を市場にしている商品は今後もあり続ける。
 また同じマスでも、各国のある世代だけを横に押さえればいいナイキやベネトンもある。そこでは、海外の同世代の人たちが何を好んでいるか、どういう消費をしているかが重要になってくる。そういうところの広告表現が、これから面白くなるのかも知れないですね。

 20世紀は広告が消費者を変え、消費者が広告を変えてきた。もはや、マス4媒体を使って行われるコミュニケーションだけが広告ではなくなってきている。スポーツや文化など、あらゆるものの広告化が起こり、BS、CSデジタル放送、インターネット、モバイルとメディアの多様化も急速に進んでいる。どこまでが広告で、どこからが広告かという境目もあいまいになってきている。21世紀は、それぞれのメディアの機能と役割が改めて問われることになるだろう。




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