特集 2000.07/vol.3-No.4

デジタルテレビ登場!
テレビ表現論の回復を
水越 伸(みずこし しん) Shin@iii.u-tokyo.ac.jp
 1963年生まれ。筑波大学比較文化学類卒業。東京大学大学院社会学研究科博士課程中退。東京大学新聞研究所(現・社会情報研究所)助手を経て、1993年から同大学社会情報研究所助教授、2000年4月から新設された同大学大学院情報学環助教授となる。専門はメディア論。著書に『メディアの生成:アメリカ・ラジオの動態史』(同文館)、『デジタル・メディア社会』(岩波書店)

 テレビのデジタル化では技術論ばかりが語られやすく、テレビ創世期にあった文化やジャーナリズム論はほとんど語られていない。通信と放送の融合が進み、新しい技術をどう使うか、さまざまな試行錯誤が試されている今だからこそ、テレビとは何かを改めて問い直す必要があるのかもしれない。東京大学大学院情報学環助教授・水越伸氏に聞いた。
 
 テレビやラジオに現在起こっていることを、ここ数年の情報技術の発展から考えるのは間違いだと思っている。少なくとも、この100年で情報技術と人間・社会がどう変わってきたかという見取り図の中で今のデジタル化の動きを考えないと、これまで築き上げてきた放送文化を台なしにする危険がある。
 歴史の中でメディアをとらえることの大切さは、インターネットでも同様に言えることだ。インターネット元年と騒がれてから5年たったが、いつの間にかインターネットは体のいいインタラクティブテレビになりつつあり、個人が情報発信や表現をする場が狭まっている。つまり、インターネットはマスメディア化しつつある。一見急速に発展しているように見えながら、インターネットのさまざまな可能性の1、2個だけが産業的に肥大化することが起こっている。
 それは、今世紀初めにラジオに起こったことと同じだ。当時の最新技術である無線を何に使うか、さまざまな選択肢があった。世界中を無線のネットワークで結ぼうという構想や宗教団体や大学がネットワークを組んで遠隔教育をやろうという試みもあった。
 しかし結局、無線は送信機能が取られ、ラジオという名前の受信専用機になってしまった。ラジオは一方向のマスメディアになったのだ。

崩れたテレビと大衆消費社会の図式

 私自身は、古典的なテレビの見方を楽しんできた“テレビっ子”だった。生まれたときから居間にテレビがあって、チャンネル争いをしたり、朝の連続ドラマやアニメを楽しみ、夏は甲子園、大みそかは紅白、そして行く年来る年を見ながら新年を迎える。そういうテレビのクロノロジーに編み込まれて生活してきた。
 日本の著名な大衆文化論者、テレビ論者は1932、3年生まれが多い。藤竹暁、石川弘義、山本明、中野収、北村日出夫、津金澤聡廣といった人たちだが、彼らは大学卒業前後にニューメディアとしてのテレビに遭遇している。
 戦後、アメリカから豊かな物資とともにテレビもやって来て、『アイ・ラブ・ルーシー』や『ペイトン・プレイス物語』が放送される。大衆文化論はアメリカの文化が日本の土着文化とどう融合していったかという歴史でもある。1960年代以降、文化を高尚文化と大衆文化に分けて、高尚文化だけを学問や研究の対象にしていくようなそれまでの考えを彼らは批判して、テレビと視聴者が結びついてできあがった放送文化の生態系を積極的に評価し、そこに大衆の主体性やカウンターカルチャー的な傾向を見いだしていった。
 新聞や出版がつくってきた活字文化と違い、テレビは圧倒的に感性のメディアだ。時には下品で、俗っぽいと言われるが、そういうところにこそ私たちの文化の日常がある。テレビは実は送り手の思い通りにならない大衆文化なのだという論が展開されていく。
 当時のマスコミュニケーション論の中心的な課題は、大衆消費社会の中でテレビがどのような影響や効果を与えているかということであり、テレビの社会的様態が確立され、国民国家の枠組みの中で大衆消費社会が安定的に展開していくことを前提としていた放送論だった。
 しかし、デジタル化、グローバル化の中でテレビというメディアの輪郭はぼやけ、さまざまな可能性が模索される一方、国民国家や大衆といった枠組みが大きく揺らぎ出している。だからこそ、「高尚文化と大衆文化」「テレビと大衆消費社会」という図式が成り立つそれ以前に立ち戻って、テレビ、そして放送論のあり方を考え直してみる必要があると思うのだ。

放送論から消えたテレビの表現論

 55年体制的な日本のテレビの中で、その後の放送論に出てこなくなった話がある。
 60年代初頭に社会学者の加藤秀俊は、テレビを使えば子供たちに映像リテラシーを学ばせたり、個人が映像を撮ったりすることができる。テレビは映像を送りもすれば受けもするものにすべきであって、受信しかできない電話、つまり映画にしてはならないと主張した。そこには、テレビは非常に民主的なものだという高邁(こうまい)な理想があった。そのころは加藤だけではなく、羽仁進と吉田直哉の論争に代表されるように多くの人がそう思っていたし、技術的にもそう考えられていた。それがいつの間にかテレビは一方向のメディアになってしまった
 放送文化論もそれはそれで悪くないが、これまで欠落していたのはこうした表現論だと思う。それはプロの表現の問題でもあるし、市民の表現の問題でもある。視聴者本位というくらい視聴者をバカにした話はなくて、要するに送り手が自分たちのプロのクリエイティブに誇りが持てないから、マーケティングに流れているだけに過ぎない。テレビの現場のプロフェッショナルな文化をきちんと評価するような表現論を育てるべきだし、テレビのプロはプロの番組をつくるべきなのだ。
 そして、テレビのプロの技を論ずる表現論がゆるやかに素人の表現につながっていく。そういう議論がテレビをめぐって必要だと思う。とどのつまり、テレビのアイデンティティーは番組づくりの面白さ以外にない。デジタル技術にはアイデンティティーはないからだ。
 映画には映画批評があるが、それに比べてテレビ批評はかなり層が薄い現実は、こうしたことと無関係ではない。テレビ批評が育たないこととテレビの表現論がないことは、コインの裏表だと思う。
 ここで表現論と呼んでいるのは、テレビ的表現を成り立たせる技法や文法、その批評の作法を織り込んだテレビ文化のための言説だ。それが今ない。デジタルテレビになると、画面に天気予報やニュースのボタンがあって、いつでも天気予報やニュースがみられる。これは技術の話であって、クリエイティブの話ではない。
 新しいデジタルの器に合ったテレビのコンテンツ開発は大きな問題だが、その議論は少ない。テクノロジー・オリエンテッドな考え方ではないデジタルの使い方をどう見極めていくか。これから性根をすえて議論をしたり、実験をしていかなくてはいけないだろう。

デジタル化を取り込んだ新しい動き

 私は放送をはじめ、メディアの現場をフィールドワークして歩くタイプの研究者で、実践にも参画する。その経験からすると、これまで指摘したことを肌で感じているのは、どのテレビ局でも2、3%の人だということだ。その人たちは、放送の基本的な枠組みを変えなければいけないことに気がついていて、そのほとんどが孤立感にさいなまれている。
 海外ではすでに、デジタル化を取り込んだ新しい動きが出てきている。たとえば、アルゼンチンではラジオ・ジャーナリズムが盛んだ。この国の有名なジャーナリストはラジオの番組を持っていて、彼らの番組を国会議員から証券会社の人まで聞いている。もちろん、テレビの普及率は100%近いが、ラジオが非常にインタラクティブでハードなメディアになっている。その理由はテレビが言論弾圧に遭いやすく、ハリウッドの資本が入ってきて娯楽メディアになってしまったことが大きい。実際にラジオ局に行ってみると、インターネットラジオをどんどんやっている。デジタルとラジオが結びついている。IT産業が盛んなシアトルでは、たくさんのビデオ・ジャーナリスト[注1]が集まってきており、市民によるメディアへのパブリックアクセスも盛んだ。フィンランドの深夜テレビは、インターネットとつないで今までにないタイプのインタラクティブなテレビ番組をつくっている。
 なぜこういうことが日本でできないかというと、日本のマスメディアの秩序とアルゼンチンやアメリカのシアトル、フィンランドとでは仕組みが違うからだ。日本は工業生産と同様に精密で巧妙なマスメディアの仕組みをつくってきた。逆に、その仕組みがあまりにもきっちりしているから自由度も少ない。
 だから、日本の放送局には未来がないということを言いたいのではない。放送局が市民に情報を公開したり、市民からのアクセスを受け入れたり、地域に根ざすことを積極的にやることを真剣に考えていくならば、日本のメディアの仕組みを変えていけないはずがないと思っている。
 確かに日本のローカル局にとって、今後の状況は厳しい。しかし、メディアの再編が進んだアメリカではローカル局のラジオやテレビの広告収入は逆によくなっている。それはアメリカの景気がよいこともあるが、広告の概念自体を変えると思われていたインターネット広告のクリックスルー・レートが予想以上に低いことがわかってきたこともある。
 アメリカのローカル局が何か特別なことをやっているわけではない。ネットワークからの収入ではもうやっていけないことがわかっているので、ビデオ・ジャーナリズム・システムを導入してニュースやバラエティーで丹念に地ネタを拾うようにしたり、営業がこまめに地元を回っている。そういう正攻法でデジタル時代の中でそこそこの営業収入を上げている。ローカル局にも、そういう生き残り策が見えてきている。

[注1]ビデオ・ジャーナリスト:小型ビデオカメラを用いて、撮影だけでなく、取材、編集、レポートまでを一人でこなすジャーナリストのこと。VJ、映像記者ともいい、米CATV局の「ニューヨーク1」の取材・報道活動で脚光を浴びる。多メディア・多チャンネル時代、ジャーナリズムの感覚と映像表現技術を兼ね備えれば、マスメディアに所属しなくても独自の映像報道を生み出せることを、彼らは証明しつつある。

放送の可能性はどこにあるか

 放送と通信の融合とはインターネットがテレビを取り込むことだという見方が一方であり、長い目で見ればインターネットを含めたデジタル・テクノロジーが、テレビの歴史の中に入ってくることなんだと言う人もいる。どこまでが放送で、どこからが放送でないか、これまでの垣根は消えていき、歴史の中で新たな境界線が徐々に作られていくだろう。
 今後の放送の可能性を考えたときに、2つのことが指摘できると思う。
 ひとつは、放送の古典的な持ち味は、やはり生放送だということだ。たとえばインターネット放送でも、ライブをやっている時のわくわくした感じがある。それは間違いなくテレビと似ている。受け手から見ても送り手から見ても、これは放送に固有のものだと思う。
 もうひとつは、多チャンネル化によって質の高い番組をつくれる可能性が逆に出てくることだ。40代、50代の人が楽しめるように構成されたバラエティー番組、娯楽番組は今はほとんどないし、ドキュメンタリーも絶滅したに等しい。しかし、たとえば、アメリカで言えばヒストリー・チャンネル、ラーニング・チャンネル、ディスカバリー・チャンネルが、非常に質の高い番組を地上波の編成の論理に流されることなく放送している。ウェブも充実しているし、いい広告主もついている。番組の2次利用やグッズもあり、経営的にも十分成功している。こういうチャンネルに今後は放送の表現文化のいいところが移って行く可能性は十分にある。

表現することと読み解くことの重要性

 表現文化をめぐって、メディア・リテラシーが今後は重要になってくる。
 私は、メディア表現がメディア・リテラシーの重要な要素だと考えている。メディア・リテラシーというと、すぐテレビを批判的に読み解くという話になるが、やはり表現と読み解くことの両方ができないとダメだと思っている。逆に、テレビをちゃんと見られない人はテレビ番組をつくれないし、業界の論理だけで考えているといいアイデアも出てこない。
 また、メディア表現といっても素人がプロみたいな番組をつくる必要はない。ただ1回でもカメラを回してフレームがどういうものかわかることから、やらせと演出の違いもわかってくる。プロと視聴者の間の回路の循環性を回復するためには、やはりメディア・リテラシーが大事だし、プロのプロたるゆえんである表現論の基礎にメディア・リテラシーがあると思っている。そういう意味では、世の中で言っているメディア・リテラシーは意味が狭すぎる。
 メディア・リテラシーは、情報技術への対応措置でも、マスメディアにうるさく言う運動でもない。人間は本来メディアに媒介されて情報を生み出し、送りもすれば、受け取り、解釈もすることでコミュニケーションをしているものだということを私たちに改めて教えてくれるものだ。マスメディアの発達の中で送り手と受け手というかたちで分断され、固定化された状況を乗り越え、メディアをめぐる人間の全体性、循環性を回復していく必要があるのではないか。このことがメディア・リテラシーの基本的な主張だ。
 この4月に、メディア・リテラシーに関係してメル・プロジェクト(MELL=Media Expression, Learning and Literacyの略)を立ち上げた。メルは、放送人や学校教師、ジャーナリストなど多様な分野で、メディアについて同じ志を持った人々の、一種のギルドだ。多様性のあるメディア環境をはぐくみ、その中で私たちが充実したコミュニケーション生活を送っていくことができるように、メディア表現とリテラシーの実践活動のハブとなることを目指している。
 さらに大学院生らとともに学生や社会人向けのメディア・リテラシーのカリキュラムを作り、教育機関、メディアなどと協力し、実践をしていく。その中から、日本のメディアを組み替える新しい循環が生まれればいいと思っている。




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