特集 1999.12/vol.2-No.9

新聞というメディアを考える  広告はメディアによって伝えられる。新しいメディアの登場で、広告そのものの役割が改めて問い直されている。同じように、広告を伝えるメディアもこれまでのメディア観ではなく、時代に則した観点から見直すことで、その特性や価値がより明確になるのではないだろうか。情報社会論、広告効果、メディア環境の変化、三つの視点から新聞というメディアをとらえ直す。
社会の基本的な価値を支えるメディア
1948年東京都生まれ。72年東京大学工学部計数工学科卒業。日立製作所、スタンフォード大学でコンピューターシステムの研究開発にたずさわったのち、明治大学教授を経て、現在、東京大学社会科学研究所教授。専攻は情報工学・情報社会論。 著書に『デジタル・ナルシス』(岩波書店)、『マルチメディア』(岩波書店)ほか。
 
 これからの新聞の役割は、「情報化社会」の視点を抜きにしては考えられない。インターネットの発達で、ユートピア的な情報社会論ではない、より現実的な議論が必要になってきている。その中で、新聞の果たすべき役割や価値はどこにあるか。東大社会科学研究所教授・西垣通氏に聞いた。

 一般に速報性はテレビの方があると言われている。これに対して新聞社は「号外」があると反論する。号外を見れば確かにかなり速く、しかもコンパクトに事件の全貌をつかむことが出来る。速報性という視点で他のメディアと比較すれば新聞も負けない。しかし、今後の新聞の役割を考える視点は、別のところにあると思う。
 最近は、ニュースをむしろ身体感覚でとらえたいという人たちが増えている。ショーとして現場で起こっていることを見たいという人たちだ。テレビでも報道的なNHKのニュースなら、新聞とそれほど変わらないだろう。しかし、起きている事件を記述するのではなく、何かが起きている雰囲気のようなものを速く知りたいという欲求を満たしているのは民放のショー化したニュース番組であり、インターネットもその一翼を担いつつある。
 こうした傾向が今後強まるとしたら、新聞は社会の中でどういう役割を担うべきだろうか。
 新聞はいわゆるオピニオン紙になるべきだという意見もあるが、これも少し違うような気がする。今必要なのは、オピニオン紙と従来の新聞をつなぐ中間的なメディアではないか。
 その中には提言もあり、読者が意見を闘わすような企画もある。違う立場の人を登場させて様々な意見があるということをきちっと位置づけていく、そういう視点が新聞には必要だと思う。
 オピニオン紙は、かなり問題が絞られた部分に関してオピニオンリーダーと呼ばれる特定の人たちの意見を発表していく場だが、鳥瞰(ちょうかん)的にいろいろな意見を紹介して、そのエッセンスを一目で知らせるという役割を担うメディアは新聞以外にあまり思いつかない。そういうメディアとしての役割がこれから新聞にはますます強まっていくのではないだろうか。
 日本ではポストモダンが「感性を楽しませる消費主義」という浅薄な文脈で使われることが多いが、ショー化したニュースの例にもそうした感性優先の傾向が現れている。だからこそ、新聞には逆に非常に論理的な部分が求められてくる。感性と拮抗して論理的な部分を押さえるメディアとして、新聞は今後も社会にとって必要な役割を果たすと思う。

言論の場としてのインターネットを

 インターネットにはさまざまな情報が得られるメリットはあるが、発信元が匿名の情報が流布することによる弊害が表面化し始めている。最近のように“噂の発信基地”としてインターネットが称揚されている状況は、やはりおかしいと思わなければいけない。
 命の電話や川柳のような一種のローカルな世界なら匿名も構わないが、基本的に自分の意見や情報を発信していくときは発信元の所在をはっきりさせないと、それは情報としての価値を持たない。だが、インターネットの世界ではそれがまかり通っているところがある。こうした状況は、一種の大衆ファッショであり、デモクラシーでもなんでもない。
 今のような状況が続く限り、インターネットはいわゆるジャーナリズム的な広がりを持ち得ない。単なる“中傷の巷(ちまた)”に堕してしまう。インターネットの中に、もう少し広い意味でのディスカッションの場というものをつくる努力が必要とされている。そこに新聞というものの果たすべき役割があると私は思っている。
 新聞記事として掲載されるニュースは、新聞社が集めたニュースのごく一部に過ぎない。これは紙面や時間的制約のせいも恐らくある。紙面から漏れた部分、みんなに知ってもらいたい情報も多くあるに違いない。
 そうした情報や主張を記者名や新聞社の名前でインターネット上で出していく。「こういうこともあります」「もっと事は複雑なんです」ということを出していく。新聞紙面で記事が完結するのではなくて、もっと自由な形での広がりがあっていいのではないかと思う。やはり新聞記者の取材力とそれを伝える文章力は一般の人たちとは全然違う。一日に一回きちっとした形で出すということにとらわれる必要もない。そういう制限を取り払った新聞社としての情報発信というものがインターネット上でできるのではないだろうか。
 そうすると新聞という信頼できるメディア上の場ということで、ひとつのナビゲーションが行えるかもしれない。そこから種々のページへリンクする形で、インターネットの中で物事をきちんと考えていくグループができていく可能性がある。
 可能性があるというのは、今はそうなっていないということでもある。今のインターネットはジャーナリズムに取って代われる状態ではとてもない。インターネットビジネスという部分が騒がれているだけで、相変わらずあるのはテレビと新聞という話になってしまう。そうすると役割が変わったといっても、急に事態が変わるということはない。新聞は相変わらず現在のステータスを保ちながら、インターネットとリンクした形をとるのではないだろうかと考えている。

認識されていない情報化社会の本質

 情報化社会については、すでにいろいろな角度から語られている。一般には知識や情報が価値をもつのが情報化社会だと言われている。ここで強調したいのは、知識が価値をもつのは、その知識を位置づけている「知恵」があるからだという点だ。その知恵の部分があなた任せ、もう少しはっきり言うとアメリカの価値観をベースにした知識ということになると、それで本当にいいのかという疑問が出てくる。
 情報化社会は分権的な社会だと言われている。産業社会は中央集権社会で、これは中央の指令に基づいてみんなが機械のように働くというイメージからもわかる。情報化社会が一般的に分権的と呼ばれるのは、パソコンをみんなが持っていて、ネットワークを組みながら仕事をするためだ。たしかにある意味で相当分権的な世界という見方も成立する。 
 だが同時に、情報化社会は記号が大量に流通する社会だ。しかも、記号の意味解釈がほとんど行われず流通する。情報が流れるときには、そこで流通する記号の意味解釈のシステムが安定していないと、記号が広い範囲で流通しても意味がない。
 情報の意味解釈のシステムが中央集権的にはっきり決まっている状況で記号が動いていれば、情報の価値や知識の価値も安定し、物事がうまく動く。コンピューターを部族社会に持って行っても無駄というのは、そういう意味解釈のシステムが安定していないからだ。つまり中央集権的な、均一な社会の上ではじめて情報化社会は成立するという逆説が成り立つ。情報化社会がある面では極めて権力的な社会というのは、こうした理由からだ。
 問題は、情報化社会の本質としてこのことが隠蔽されている、認識されていないということだ。みんな自由にやっている。けれど、それはお釈迦様の手の上でやっているだけではないのか。
 「何を価値とするか」の知恵という根底的な部分が重要であるにもかかわらず、そこをあなた任せにしておいて、その上で細かい差異の操作で巨大な利潤が動くというのが日本が迎えようとしている情報化社会なのだ。これはユートピア的な情報化社会論に対する私の批判でもある。
 情報化社会は、根本的な価値基準が均質化された社会で、そこでは非常に巧妙な搾取が行われがちだという一面を忘れてはいけない。

新聞に求められるグローバルな視点

 これまでのジャーナリズムは、ある意味では近代国家のもっている負の部分に警鐘を鳴らしてきた。
 近代国家は議会制民主主義など形式的にせよ一種の市民の権利を認めてきた。しかし、それは国内だけのことであって、他国の市民の権利はあまり認めない。他国の権利は認めないで自国だけはどんどん膨張していこうとした。それが前世紀末から今世紀前半までの近代国家のビヘイビアと言える。それによって残酷な戦争が起きた。
 近代国家が成立したばかりの十九世紀から二十世紀前半はさまざまな問題があって、新聞もそのころ同時に誕生した。一方では国の動きを助けたり、他方では国の行き過ぎを告発しながらともに成長してきた。また、表向き均質と言いながら国内で現実的に生じる差別、そういう不公正も新聞は告発してきた。
 ところが情報化社会というのは、国際化、つまりグローバライゼーションを必然的に伴う。そういう潮流の中で国境をまたがる矛盾が起きている。それに対しても、新聞はやはり批判していかなければいけない。それがジャーナリズムの役割だと思う。
 二十一世紀はテロが非常に問題になると思っている。情報化社会は非常に脆弱(ぜいじゃく)な社会であり、あるところが壊れたらどう修復していいかだれもわからない非常に怖い面を持っている。国家とは違ったグローバルなレベルでさまざまな新しい脅威が実は出てきている。そういう中で、普通の人たちが被害に遭わないようにするにはどうしたらいいかということが本当は問われている。しかし、相変わらず二十世紀前半か中期ぐらいまでに積み上げられたロジックや制度を前提に物事が語られているような気がする。
 情報化社会とは何かと改めて言えば、ベーシックなところは完全に秩序立てられた社会で、その上でアナーキーな無秩序が許される社会というふうにとらえたほうがむしろ正確だと思う。
 個人の自由はもちろん否定してはいけないが、人間は他の人の立場に立って共感や想像力を働かせていくこともできる。そこにいわゆる公共性というものも出てくる。二十世紀末から二十一世紀の新しい価値観を真剣に語り合っていく場を提供するのに、新聞の力は非常に大きいと言っていい。

社会の基本的な価値観を支える役割

 新聞には、政治面、経済面だけではなく、スポーツ面や社会面、文化面もある。鳥瞰的に五分間で一日の動きを知りたいと思っても、今のデジタルメディアでは難しい。新聞はそういう世界の多面性を編集しているわけで、単なるニュースとは別の価値も持っている。新聞は常に新しいニュース、新規性を求めているが、それとともに社会の基本的な価値観を支えている部分もある。
 二十一世紀をどう形成していくのか。そのあたりをジャーナリズム性とリンクした形で考えたほうがいいのではないだろうか。メディアは文化を形成するものだから。




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