特集 1999.11/vol.2-No.8

サイバースペースで何が起きているか  一九九九年はインターネットにとって一つのエポックになるかもしれない。国内の利用者率が10%を超えたからだけではない。個人のホームページでの企業告発が話題になったように、現実の社会に大きな問題を投げかけた年としてだ。インターネットが作り出すサイバースペースは、パーソナルとパブリック、メディアとチャネル、広告と広告でないものの境目がない世界といわれている。サイバースペースで今、何が起こっているか。コミュニケーションとビジネス、二つの側面から追ってみた。
暴走するメディアー告発するホームページを考えるための視点ー 阿部勘一氏
1971年秋田県生まれ。94年名古屋大学経済学部卒業。現在、東京大学大学院国際文化研究科国際社会科学専攻(相関社会科学コース)博士課程在学中。専攻は、社会経済学。主要研究分野は現代社会論、消費社会論、情報社会論など。
 
 「インターネット」という用語が一般に使われるようになったのは一九九五年ごろからだが、それが現在ではパソコンの普及率が15%、インターネット人口は約一千二百万人に達し、いよいよ本格的な普及期に入ろうとしている。
 しかし、この七月の「東芝問題」に端を発したインターネット上での相次ぐ“告発”に象徴されるように、便利さの裏側に潜む危険性も露呈してきた。新たなメディアとして、また様々なビジネスの可能性からも注目されてきたインターネットだが、予想外の展開に「ネット世論」「ネットコンシューマリズム」などの新語も生まれた。実際このような状況に危機感を抱いた日本PR協会は八月に「ネットコンシューマリズムの衝撃」と題してシンポジウムを開催している。
 これまで自由に発言する手段を持たなかった市民がメディアを獲得した――とする見方もあるが、一方で従来であれば十分な検証なくしては発信されなかった情報が、すべての境界線を越えてアプリオリに流されることになった。
 こうした事態を、社会や企業は無条件に受け入れなければいけないのか。消費者=弱者、企業=強者という構図が出来上がっているだけに、議論の矛先は鈍りがちだ。
 インターネット上での相次ぐ“告発”の内容についてではなく、インターネット上での個人の発言とは何かを議論する視点を提示する意味で、インターネットとはどんなメディアなのか、サイバースペースの発言者たちを駆り立てるものは何かについて考えていく。


 昨年十月の日本社会情報学会で興味深い論文が発表された。題して「サイバースペースの陥穽(かんせい)と民主主義の言論」。筆者は東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻の博士課程に在学中の阿部勘一氏である。
 阿部氏が論文を書くきっかけになったのは、インターネット上でマスコミ批判を行うホームページを開設していた知人が、九七年十二月下旬の深夜何者かに襲われた事件だった。襲われた「彼」は、自分を襲ったとされる側の人々とネット上で論争していたらしい。が、阿部氏がここで問題にしたかったのは、どちらの立場が正しいかではなく、インターネットに代表されるいわゆるサイバースペースでは、発言する主体はなぜ「暴走」しうるのかということだった。
 「東芝問題」も発言内容の真偽については一部マスコミで取り上げられたが、こうした問題は、従来はネチケットやメディア・リテラシーの観点から語られることが多い。「インターネットは自由な言論空間であるという暗黙の前提」を括弧に入れて、この空間の持つ性質、そしてそれを支えるシステムを知ることが、議論の土台になるというのが、阿部氏の考え方だ。

なぜ、インターネットでは議論がまとまらないのか

 インターネットの個人の発言と現実の世界の発言の違いについて、阿部氏は次のように考えている。
 「街頭に立って何か主張するとしたらかなりの勇気がいりますが、インターネットの中では割と気軽に発言できる。インターネットで会議や議論をしている人たちにとっては、ある意味で自分たちがマスコミになったという感覚になってしまうのだと思います」
 現実の世界なら、良い悪いは別にして新聞やテレビなど“情報の編集者”がいて世論は一定の方向に収束する。しかし、「インターネットの場合はあちこちにマスメディアがあって論点がはっきりしないまま何かガチャガチャやっているという感じです。最近、そのへんのインターネットの持っている特性、問題点が何の議論もされずに出てきて止められない状況にあるということだと思います。これにはある種の危惧、怖さを感じます」
 では、こうしたインターネット上の議論のとりとめのなさはどこから来るのだろうか。

発信者の顔が見えないメディア

インターネットの話題の伝達経路 インターネットは「n人×n人のコミュニケーション」であると言われている。情報の発信・受信が一方的ではなく、だれでも自由に、安いコストで発信も可能ということになっている。「双方向性」ということには「今日からあなたも発信者」というキャッチフレーズに代表されるように、低コストで情報発信できるという意味が含まれている。したがってこの状況は「今日からあなたもマスメディア」と言い換えることも可能である。
 「双方向性」あるいは「n×n型」であるという言い方は、「一方向性」あるいは「1×n型」という既存マスメディアとの対比、あるいは対抗的な意味で使われているが、インターネットを使った発言や東芝問題のような告発は、むしろ1×nのコミュニケーション(マスコミュニケーション)がn個集まった結果として成立しているということができる。
 インターネットが爆発的に普及するきっかけになったのは、WWW(ワールド・ワイド・ウェブ)が誕生してからだ。ホームページを見る、見せるシステムであるWWWの登場は、インターネットの利用者を加速度的に増やし、それとともに変質しはじめたと言うのは、東京大学大学院助教授の佐藤俊樹氏*である。
 インターネットの当初は研究開発部門に携わる人々のみが利用する限られた空間であり、そこは比較的顔の見える集団が利用する場だった。しかし、世界で約一億六千万人の利用者がいるインターネット(平成十一年版郵政白書)は、今や顔の見えない人々によるコミュニケーションの場となっている。
 同氏はそれを「異貌(いぼう)のマスメディア」と名付けた。顔が見えないとは、通常ならばメディアに登場する以前に働いていたはずのチェック機能、実在の人物かどうか、信頼できる情報か否かの確認が行われないことになる。その結果サイバースペース空間では別の「顔」を簡単に捏造(ねつぞう)することができる。

*佐藤俊樹:東京大学大学院総合文化研究科助教授。社会学博士。著書に『近代・組織・資本主義』(ミネルヴァ書房)、『ノイマンの夢・近代の欲望−情報化社会を解体する』(講談社選書メチエ)などがある。

自己表現の欲望を生む電子メディア

 サイバー発言者たちにとってリスクを負わずに「表現者」になれるという環境は、理想的なものである。人々はいわば「ヒーローになれる空間」を獲得したことになる。
 人々がメディアに対して「過剰な崇拝」をする傾向が見られるのは自分以外の他者がメディアを用いて「見られる者」になることに対する羨望や嫉妬を抱くからである。情報の発信者になるということは、不特定の他者から「見られる存在」になることであり、有名性への欲望を満たすことでもある。
 インターネットには、自由に発言を書き込める「掲示板」やリアルタイムで会話ができる「チャット」がある。Eメールを使ったメーリングリストでは、発言を参加者に同報通信でき、その発言に対する反論も同じく参加者全員に同報通信される。
 阿部氏は論文を書いた問題意識の在りかを次のように語る。「論争をしているリングの周りにいる観客がどれぐらいいるか、それが一番重要だと思う。むしろその議論を外側で見ている人がどれぐらいいるか。しかもその論争自体にルールがなく、今まで発言のなかった人が突然、論点を無視した意見を差し挟むこともできる。プロレスで観客が突然リングに乱入するようなものです。議論は無秩序状態のままどんどん広がっていってしまう。そういうところでいわゆる電子民主主義、市民社会的な議論が本当に成立するのか」
 匿名が許され、“だれかに見られている”ことを意識しながらの論争は、現実のコミュニケーションではあり得ないような欲望を生む。
 電子メディアを通して「自己実現」「自己表現」しようとする欲望は、「ナルシシズム」への欲望と言い換えることもできる。このような情報機械によるナルシシズムを持つ人間を「デジタル・ナルシス」と呼んだのは東京大学社会科学研究所教授、西垣通氏*である。

*西垣通:東京大学社会科学研究所教授。工学博士。著書に『マルチメディア』(岩波新書)、『デジタル・ナルシス』『聖なるヴァーチャル・リアリティ』(ともに岩波書店)、『こころの情報学』(ちくま新書)などがある。

社会の問題としてインターネットを考える

 しかし、こうした混乱は新しいメディアであるインターネットの過渡期の問題なのか、それともメディアとして根本的な欠陥を持っているためなのか、疑問が浮かんでくる。
 「現代社会は消費者主権が保障されているとは言えない。個人がいろいろな苦情を言っても、それがマスコミに取り上げられるわけではない。インターネットはそれを解決するための情報技術であったはずなのに、曲がってしまった状態、暴走してしまった状態で修正されることなく普及するのではないかと、悲観的になることもあります」
 阿部氏はその理由を、インターネットそのものの問題というより、現実の社会との接点の上に立った議論がこれまでなされてこなかったためと分析する。
 「インターネットの空間がリアルな空間の延長上にあるという考えの上に、元からある論理を重ねていかないと議論がかみ合わない。ただ時代に流されて、個人が自由に発言ができるとか、まったく新しい時代なんだというようなことばかりが言われている。インターネットの問題は、結局社会の問題をどう考えるかというところに落ち着くと思うのです」
 たとえインターネットが当初はパーソナルなコミュニケーションとして出発したとしても、その空間はすでに公共的な場になっている。米国ではNPOの発達によりネット版の「コンシューマー・リポート」をやろうという動きもある。
 「公共性は、私(わたくし)を超えた次元にあるある種の規範みたいなものだと思うのです。公共的な空間のなかで自分の立場を保ちながらお互いの価値観をすり合わせる。そういうことができるのが公共性を持った人間ということになる。議論の方向、ルールなど、守らなければいけないこともあると思います」
 しかしながらいつの時代も、新しいテクノロジーが誕生すると過去をすべて否定することが正しいというような議論が起こりがちだ。

課題が未整理なまま展開される議論

 「サイバー空間は、まったく違う社会であり、まったく違う空間であるという認識自体が、情報社会という言葉にまどわされている結果だと思います。新しいものが出てきたときは常にそういう混乱がある。どこが同じで、どこが違うのかの検討も必要だと思うのです。工業中心の社会も情報技術中心の社会も、資本主義社会であることに変わりない。多分問題整理ができていないから、インターネットも『規制する・しない』という一元的な選択肢の中で揺れていると思うのです」
 では、考えるべきインターネットの問題とは何なのか。
 「インターネットの性格から考えると、たとえ匿名の発言をなくせとリテラシーの問題をどんなに強調しても守られない。ただ面白いからという部分がまだいっぱいある」
 印刷メディアは新聞、雑誌、と分化し、その中にもさまざまな種類があり、現実の中の役割が明確になっているが、インターネットはメディアの中での位置付けがまだ明確でない。インターネットはあらゆる可能性を持っているが、まだ原始状態の社会のように機能分化が進んでいない。
 また、他のメディアとの際だった違いもある。それは先ほども指摘した「井戸端会議をやっている空間自体がメディアになっているという特殊性」だ。そして、その空間がガラス張りになっているということが実はあまり認識されていない。個人的な会話をみんなに見られ、しかもそれを意識する空間は今までなかった。
 重要なのは、こうした認識を踏まえた議論だ。阿部氏は指摘する。「自由が保障されている空間だということは重要視されなければいけないし、そういう空間だからこそ幻想であるかもしれないけれど電子民主主義なのだと思う」

「公」と「私」の間に境目のない空間

 問題は、この電子民主主義空間の中で、民主主義の主体たる「市民」や市民社会の論理を支えている「公共性」といった概念が、そのまま適用できるかという点にある。
 たしかに、現代社会は民主主義というシステムの上になりたっている。だが、この社会は複雑かつ巨大であり、自由な討論や意思決定の透明性などの確保に困難が伴う。だからこそ、様々なレベルでの「情報の透明性」が求められてきた。この一翼を担ってきたのが、マスメディアだと言える。
 「これまでは、マスメディアの編集というフィルターがあり、どういう社会問題があって、その何が重要なのか、ある程度淘汰(とうた)されて世論が形成されてきた。インターネットでは、それが淘汰されないまま提示され、見ている人も何かよく分からないまま議論に参加してしまう。サイバースペースには、一方では各個人が公的領域における不特定多数に向けた言論活動、すなわちマスメディアとしての活動を保障しながら、もう一方では私的領域を担保しているという二重性がある」
 阿部氏の言う「私的領域を担保している」とは、公的領域における責任を容易に回避できる環境にあるということだ。現実の「公」レベルの言論空間には、この「担保」できる領域はない。現実の世界で言論活動を行うことは、公的領域に対して責任を背負う必要があることでもある。それは、同時に「市民」のコミュニケーションのなかで形成されてきた約束事であり、暗黙の了解でもある。
 もちろん阿部氏は、サイバー空間の発言はすべて無責任で、責任回避をしていると言っているわけではない。インターネットは、その検証が不可能なシステムだと指摘しているに過ぎない。どこまでが私的な発言で、どこからが公的な発言かという境目のないシステムなのだ。

企業と消費者が対等に話し合う時代へ

 このようなメディアとしてのサイバー空間の中で問題になるのが、冒頭でふれたネットコンシューマリズム、ネット世論にいかに対処していくかということだ。
 今まで見てきたサイバー空間の発言の特性を社会的なコンセンサスとして作り上げていくという考え方があるが、阿部氏の見解はやや異なる。
 「実践的に考えるなら、徹底した消費者保護を本当の意味で重視する、企業が消費者に歩み寄ることを徹底させるより仕方がない。それはきれい事ではなくて、企業が歩み寄って本当に対等な立場で議論できるようになれば、たぶんそういう驚異のメディアとしてのインターネットを持った人たちが何をやったとしても怖くないと思う。本当に誠意を持って消費者主権ということを考えていく。企業側もそれを把握できるような組織作りをし、インターネットを使ってコミュニケートする。インターネットを駆使しないと、どこで何が起こっているかも分からないし、たまたま社長のアドレスを公開していると社長あてにポンとメールが行ってしまうかもしれない。もちろん社長が直接声を聞くという意味ではいいことだと思うけれども、そういう心構え自体をしておかないといけないと思うのです」

インターネットは現代社会の縮図

 しかしながらこの間のネット上における“告発”問題は、まさに目に見えない空間から不意に地上に立ち現れてきたかのような印象を受ける。
 「公共的空間とは、本来どちらも同じだけの権力、力を持っている空間だと思うのです。ホームページで何か発言しようという人の意識も同じで、対等に必ず声が届くと思えてしまうのがインターネットの作る空間なのです。物理的な面積は広いのかもしれないが、人々の距離感は狭まっている。
 今の人たちは本当に自分の周りにあることしか関心がなくて、こういうことが言われていると聞けば、無批判とまではいかないけれども知らず知らずのうちにそれが重要なことだと認識してしまう。しかも一部分だけが強調されて、日本中がそうなったと思い込んでしまう。『カリスマ××』と言われるものがたくさん出てきたりしているのが、その例です。サイバー空間で起こっていることは今の情報社会、現代社会の一つの縮図みたいなものだと思うのです。公共性とか全体を見るという意味での社会性を失って、自分たちの見える範囲のことしか認識できないし、興味もない。そういう意味では、インターネットは現実主義なのだけれども、視野が狭い。そこで言われたものはウワサであっても信憑性(しんぴょうせい)のあるものになってしまう。完全に遊びの面もあるしそうではない部分も混ざっていて、遊びとそうではない部分の境界がなくなっているというか、なくさせてしまっている空間なのです」

 インターネットは現代のビジネス社会においてはすでにチャネルであり、メディアであり、マーケティング・ツールとして活用されている。一方ではコミュニケーションの手段であり、遊びの道具でもある。見方を変えれば、一台のパソコンがこれだけの役割をこなしているということにもなる。が、どんなネットワークにつながるかによって、武器にも凶器にもなることもまた事実である。
 メディアとしてのインターネットを考える時、これまでのマスメディアにおいてはメディアの特性が理解されているがゆえに、信頼も批判も理性的になされてきた。しかしながらインターネットが多数のマスメディアの集合体であるとするならば、そこで流される情報に対する信頼も批判も検証が難しくなる。
 サイバースペースが今後どのように変化していくのか、それにどう対応していくのか、さらに議論を深めていかなければならないだろう。


[→「サイバースペースの陥穽(かんせい)と現代民主主義の言論」(要旨)



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