特集 1999.7/vol.2-No.4

消費者はどこに行ったか
消費者を縛る経済システム 慶応義塾大学商学部教授 牧厚志氏
 多くの制約が隠れた需要の顕在化を妨げている。従来型の消費、経済システムの枠組みにこだわっている限りそれは見えてこない。慶応義塾大学商学部教授の牧厚志氏に、消費不況の原因と今後の企業と社会のあり方を聞く。
 
「制約のわな」が隠す潜在需要

モノが売れない時代といわれていますが、経済学の視点から、その原因をどう見ていますか?
 消費者の行動を規定する制約にはさまざまなものがありますが、従来気が付かなかったいくつかの制約がここにきて顕在化してきた、ということだと思います。
 これまで消費者を取り巻いていた制約は経済学でおなじみの「所得の制約」だけでした。つまり所得が上限になって、ここまでしか買えない、あるいはこれだけ買えるということでした。しかも、右肩上がりの経済成長で所得も増え続けていたから、物を作れば売れる状況が高度経済成長期から七〇年代まで続いたわけです。
 ところが現在では、高度経済成長期にみられたように、制約を制約として感じない状況、例えていえば所得制約のフロンティアムーブメントがなくなってしまった。つまり、西部開拓時代のアメリカでは西へ西へと拡大した。途中で土地を手に入れ、金鉱もあったり。そして最終的に西海岸に到達したときに初めて制約にぶち当たり、ここで西進運動も終わりなんだなということになったわけです。日本はまさに今、そういう時期にあると思います。昔は顕在化していなかったが、今は明らかに顕在化したいくつかの制約にぶつかっているときだと思うのです。
顕在化してきた制約というのは?
可処分所得と消費性向 所得の制約は今も効いています。それ以外に、「空間の制約」がある。例えば私たちの子供のころは、家具といえばせいぜいタンスで、あっても洗濯機、冷蔵庫くらいだった。
 ところが高度経済成長期になると、新製品が次々と出てきた。それらは次々と居住空間を埋めていった。耐久消費財の購入は生活を便利にし、主婦の労働時間を減らし、生活水準を向上させた。もし居住空間が無限にあれば、どんどん欲しい物が買えるわけです。でも、居住空間が一杯になるとものをそれ以上買えない状況になる。オーディオセットを買ったが自分が聴く場所がない。車を買ったが駐車する場所がない。それは、明らかに空間の制約に引っかかっているわけです。
 さらに所得水準が上昇すると、家族を主体とした消費から、個人が主体になる消費になっていきます。そうすると、必然的に価値観の多様化が起こる。
 「国際化の制約」も大きい。一九六〇年代の日本のように経済規模が小さいときは、アメリカへでも東南アジアへでも、自分たちが作ったものを輸出して、自分たちに必要な原材料やエネルギーを買ってきたが、世界経済には何の影響も与えなかったわけです。ところが一九八〇年代以降、日本は資産大国になった。日本が風邪をひくと、東南アジアは肺炎になるといわれるようになった。このような状況では、相手の立場も考えなければならず、協調や相互理解が必要になってきた。自分たちの好きな形でマーケティング戦略を組んで、物を輸出入することが不可能になってきた。国際化の制約のなかで、バランスを考えながら日本経済を運営していかなければいけない。それが消費者活動にも影響します。
 「高齢化の制約」もあります。生活水準の向上に伴って、当然、日本人の平均余命は伸びました。今日のような人生八十年の時代になると、就職して三十年、リタイアして三十年。後半の三十年の生活は、今までとまったく違ったライフスタイルになります。
 もっと高齢者を雇用できる制度改革や技術開発、医療施設をシステムに内包した生活パターンに変えることも必要です。今、日本にはそれが充足できない。潜在的な需要はあるが、それを充足する供給体制がないということです。
 だれもが介護が大事、医療費や薬品も規制緩和して安くし、高齢者に対して豊かな生活をサポートできるような需要を喚起しなくてはいけないといいますが、一番の問題は、従来の制度では新しい需要を充足できないということです。需要に対してミスマッチが起こっているのです。
 「環境の制約」も挙げることができます。高度経済成長期には水俣病などの地域的な公害被害が問題になった。ところが、今日では酸性雨やダイオキシンなどの環境破壊が世界的な規模で消費者を脅かしている。そのような状況で、人間が生活していくために守らなければいけない農産物に対するダイオキシン濃度などの環境基準値が制約として顕在化してきた。環境ホルモンを出さない新製品を開発せざるを得ないことも、環境の制約を無視できなくなった証拠だと思います。

企業が消費者をコントロールできない時代

交際費の推移さまざまな制約が潜在需要の顕在化を妨げています。では、その解決策は?
 今までの日本の経済システムは、消費者のためというより、国のため、企業のためであった。国が富んで、企業が富めば、それに応じて消費者も豊かになるという考え方です。これからは国民、つまり消費者のための利益が国益だと思うのです。
 消費者が見えなくなったのは、企業が消費者をコントロールできなくなったということもあります。今の消費者は企業の言いなりになって物を買ったり、消費をしたりする主体ではなくなってきている。高度経済成長期を通過したとき、消費者はいろいろな知識を得た。国際化の過程で自分たちの置かれている立場も理解して、違う世界があることも知ってきたわけです。
 近代社会は、市民社会から生まれています。消費者主権のなかで、国民一人ひとりが独立した消費者として、自分の責任に応じた形で消費活動をしていく。これが近代社会のあり方で、日本は今そこへの移行期にあると思います。
 しかし、移行するためには、まだ足りないところが日本社会にはいくつもある。
 一つは法制度です。今までの法制度をみると、行政が主体となって、立法や司法が後追いしていた。行政が“業法”を使って個々の産業をコントロールしてきた。石油、薬品、金融など個々の業界に対して業法でコントロールし、それで悪い商品やサービスを作らなければ、消費者にとってメリットがあった。つまり、業法を活用することによって間接的に消費者にメリットがあった。
 ところが最近状況が変わってきた。製造物責任法(PL法)は、消費者が苦情を申し立てるときに消費者に説明責任を求めない画期的な法律です。これまでの行政の態度には、「国の管理の下で企業が作ったものが、悪いはずない」という暗黙の前提があったが、その発想を逆転させる考え方をPL法は持っているわけです。また、消費者契約法も消費者の権利を明確にする法の一種です。
 今後は、消費者自身がいろいろな企業から供給された商品、サービスに生じた欠陥を消費者の責任で司法の判断を仰ぐことができるようになった。そういう法律の網を広げていくことが、次代の新しい消費者、あるいは市民社会をつくる基になるのです。そこで消費者自身が一つの自己責任主体として意味を持ってくるわけです。
 繰り返しになりますが、九〇年代以降、消費者の自己責任が強調されてきました。そこには、責任と同時に権利がないといけないわけです。その権利は、PL法などのように法律で保護されるべきものなのです。
これまで日本が工業化で欧米に追いつこうとしたように、新しい経済システムも後追いすべきだという話にも聞こえますが。
 現在は、各国でイデオロギーの対立はなくなった。資本主義の根本には個人主義があります。自分たちがつくった物に責任を持つ、自分たちの買った物に責任を持つ。それが個人主義の基礎にあります。つまり、自分たちが責任を持ち、自由な発想で動かない限り、資本主義はうまく動かないのです。
 そこには一定のルールがある。欧米型資本主義と一言で言いますが、実はそれぞれの国が特有の制度で動いている。しかし、そのなかでも「共通ルール」がある。別に日本がそのシステムに追いついていこうという話ではなく、共通ルールは受け入れなくてはいけないということです。受け入れなければ世界の一員としてはやっていけないということです。

会社の交際費に消えたバブル期の富

消費者が見えなくなったといわれ出したのはバブル以降だと思いますが、バブルとは何だったのでしょうか?
 八〇年代以降、日本は資産大国になった。日本の貿易黒字が増えていって、そのために八五年のプラザ合意でドルと円の交換比率を変えたわけです。円高を容認した。恐らくこの時点が高度成長の到着点だったのでしょう。日本が小国ではなくて、大国になってきた自覚がそれ以前に見えてこなければいけなかった時期でもあります。
 一九八〇年代の初期に国際社会のなかで自分たちが生きていくという心構えで市場開放や規制緩和を進めていけば、プラザ合意というような形での大きな断層はなかったかもしれない。そして、バブルもなかったのかもしれない。
バブル期の消費行動をどう見ていますか?
 総務庁の「家計調査」の所得階層別データを見ても、バブル期に大きな消費パターンの変化はみられません。職業別や証券、不動産といった産業別データを見てもない。では、どの分野にバブル期の高額消費の影響が現れているかというと、「家計外消費」です。わかりやすくいえば、バブル期の銀座の夜のにぎわいや高級車の販売台数の伸び、海外でのオークションによる絵画の購入は、家計部門が消費したというのではなく、企業が費用としてあるいは交際費として支払った異常な大盤振る舞いであったということです。実際にそれがデータにも出ています。
 また、東京と大阪は確かに消費が増えていた。まだはっきりした結論は出しにくいのですが、バブルの影響について地域差はかなりあったと思います。
 ただ、バブル期の高額消費がなぜ可能だったかといえば、使われたのは企業部門の金で、はじめに言った家計部門の「所得の制約」に引っかかっていなかったからです。バブルの後の消費不況は、企業が消費者を独立した主体として見ていなくて、むしろ消費者はいかようにもなる存在だと錯覚した結果だと思います。
 もっと致命的なことがあるとすれば、住宅ローンの返済の重荷が今後ボディーブローのように効いてきます。国の借金と同時に個人の借金の問題も今後は表面化してくると思います。

バブル後の先行き不安が消費不振の原因

バブル後、モノが売れなくなったのは消費者心理が変わったからなのか、それとも別の理由があるのですか?
 基本的に人間の欲求は無限です。消費者は質の高い物を欲しがります。よりうまい物を食いたい。何か便利な物があったら使いたい。質の良いサービスを享受したい。消費の飽和はあり得ません。
では、なぜということになりますが。
 今一番消費者が望んでいることは不安の解消です。
 人生八十年になる一方、ある程度所得水準も上がった。そうすると、退職した後でもその水準を維持したい。維持するためにはお金がいる。そのときに、介護保険も怪しい、これまで契約した銀行預金や生保も心配だ、自助努力しかないとしたらためるしかない。このように、バブル以降の先行き不安は消費者にとって非常に大きなものがあります。
 消費者行動は安定していますが、日本経済全体としての借金体質を通じた将来への不安が増大したことが消費を止めているのです。
 もう一度強調しますと、消費者が一番不安になっているのは、“将来の不安”です。不安に対してサポートするシステムができていなければ、自分の消費を控える以外ないわけです。そういうことからも、先に述べた法制度の整備が大事なのです。

経済システムの転換期に企業はどうあるべきか

現状を打破するには経済のシステムを変えるしかないということですか?
 そう思います。六〇年代、七〇年代までは、官僚制度はうまく機能していた。それは否定しません。なぜ今駄目になったかといえば、比喩的には子供のときに着ていた服が大人になっても着られるか。つまり、時代とともに制度も変わっていくべきなのです。
 官僚制度は基本的に保守的です。規制というコントロール手法しか持っていない。所得が上がって人々の発想も豊かになっているときに、それでも画一化するのは無理が出てくるわけです。
 今日の状況を見れば、国を保っていくためには増税も致し方ないことは、だれもが納得すると思うのです。自分たちの将来がよくなるようなシナリオがあれば、問題なく重税も受け入れるわけです。ところが今、世の中にどれくらい借金があるのか、どれくらい危険水準にあるのかが分からない。情報公開や取引の透明性も、別にグローバルスタンダードに従ってというような、よそから借りたアイデアではなくて、むしろ我々が切実にそれを望んでいるわけです。
 このように消費に対して一番不安を感じるのは、社会のセーフティーネットが崩れているときです。
そういう現状で、企業はどう対応すべきですか?
 日本で十分な中古市場が成立しているのは自動車だけです。大量生産、大量消費から、リサイクル型の社会をめざす方向が一つあると思います。企業も今までのように一つの商品を売るのではなくて、システムとして一生を通じてライフスタイルの変化を考慮しながらこういう形で生活すると便利ですよ、豊かな暮らしになりますよという提案をする。企業が作っている物が経済のなかではどういう位置を占めていて、どういう形でリサイクルできるのかを念頭に置きながらマーケティングをしていくことが大事になってくると思います。
社会的な意義、正義だけでは消費者は動かない部分もあると思うのですが。
 経済学者はどうやったら一番効率的なのか、公正なのかという視点からものを見ています。公正という視点からみると、資源は有限だから我々の世代だけで使い切ってはいけないということも成り立ちます。
 市場経済で一番大事なのは効率です。そのためには競争が一番効いてくる。競争の世界では、規制が取り払われることによって、企業も消費者が望んでいる商品やサービスを供給できる。消費者も市場において買いたい物を自分で購入する。そういう世界になります。
 そうすると今度は、当然ですけども社会的な弱者に対するセーフティーネットが必要なわけです。しかし、財源がないと社会保障はできない。例えばイギリスやかつてのニュージーランドは、大英帝国の時代の富を原資にして社会保障システムができたわけです。財源のない国では賦課方式と言って、若い世代の税金を確保し、国がその税金を高齢者に分配する。そういう世代間の移転で社会保障をやってきた。日本も、このような形で社会保障をやってきた。
 日本は、結果の平等を強調しすぎる国です。今の時代は、もう一度効率について見直し、やる気のある人、能率的に資源を使える人に生産性を上げるような機会を与えていかなくてはならない時期なのです。まさに、機会の平等という考え方を再認識しなければならないでしょう。そうしないと、日本の国自体が効率も駄目だし、公正も駄目な国になってしまいます。



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