特集 1999.4/vol.2-No.1

企業とクリエーティブの距離
 広告クリエーティブは、日本経済の右肩上がりの成長とともに伸びてきた。それが今、低迷する景気の中で機能しなくなったと言われている。世界第二位といわれる日本の広告市場の大きさが、広告の仕組みを大作りにし、専門化させ、いつのまにか企業とクリエーティブの距離を広げてしまったのかもしれない。広告制作を依頼する側も、つくる側も、広告とは何かが改めて問われている。
 広告がパワーを回復するカギはどこにあるのか。今回の特集では、そのカギを企業と広告制作者、双方の視点から探った。
梶氏と三田村氏 梶氏
1931年大阪生まれ。早稲田大学文学部卒後、電通入社。1960年、日本デザインセンター設立に参加、アサヒビール、野村証券、トヨタ自動車など各社の広告づくりを担当。国鉄民営化に伴うJRマークやトヨタマークのデザインなどCIのディレクションも手がける。現在、日本デザインセンター代表取締役会長。東京コピーライターズクラブ会員、東京アートディレクターズクラブ会員、日本広告学会理事。

三田村氏
1938年京都生まれ。1957年にワコールの前身、和江(わこう)商事に入社、一貫して企画・開発・トータルプランニングを担当。約10年間の宣伝部長時代にワコール広告宣伝の基盤をつくり、1998年同社退社、三田村和彦企画事務所を開設。日本広告主協会理事を14年間務める。日本マーケティング協会マーケティングマイスター、日本ペンクラブ会員。著書に「街角からのマーケティング」「現場感覚の磨き方」など。
 
広告は企業の長期的な利益を生み出してきたか

 梶 
企業は一年たったらやめるというわけにいかない。百年でも二百年でも存続し続けることが前提になっています。だから、ずっと続いていくという前提であらゆる問題を考えていかなければならないのに、広告は今期の売り上げや今月の目標達成というところにだけ関心が向かっている気がします。
 バブル期のように右肩上がりで日本経済が発展していくときはそれでもよかったのですが、大企業でも一朝にして崩壊する時代ですから、次のこと、先のことを考えていかなければならない。環境問題の議論でサスティナブルという言葉が「持続可能な地球」、「持続可能な環境」の意味で使われますが、今は企業のサスティナビリティー、持続可能性を考えていかなければならない時代です。
 広告で一時期爆発的に商品が売れても、それは企業にとって喜ぶべきことではない。ブームが起こって大ヒットするのは結構なことですが、その反動で次の期に売り上げが大幅に落ちたら企業にとってむしろマイナス。だから、長期にわたって安定的に利益を生み出す視点で広告を考えていかなければならない時代に来ていると考えたいというのが、最初の問題提起です。
 三田村 
その背景には、スピードが経営のキーワードになってきたことがありますね。昔はマーケットや商品、顧客を、ゆっくり温めながら正確に育てていくのが基本だったと思うのですが、どこかの時点からスピードという要素が入ってきて、それを無視するわけにいかなくなった。早く成果を出すにはどうしたらいいかという考えが、逆に飽きっぽい市場をつくってしまった。あるいは商売のやり方にも根気がなくなってきたし、広告もとりあえずその場を乗り切るつくり方が多くなってきたと思います。スピードという点では、テレビの力は認めざるを得ませんが、秒単位でモノを売ろうとしますから、だんだんそれがせっかちな広告のつくり方にもなって、違う種類の広告人が出てきだした。
 また、日本には禊の精神があって、年末になるとなんとなく周辺をきちっと片づけて装いを新たにしようとするように、期末になると残品を処理する、キャンペーンのポスターを下ろす、あるいは人事異動で人間まで決算する。とりあえず禊をして新しいところからスタートしようという日本特有の美学が広告の中にも入り込んで、今までやってきたキャンペーンやせっかく育ててきた市場をいったん白紙にして、また次のことをやっていくという作法をずっと繰り返しているわけです。だからお客との深いつながりができないし、ロングセラーが育たない。
 もう一つ大きいのは、企業文化や経営ポリシーの伝承とか伝達があまり行われていない。前任や前歴を否定してまったく白紙で望むほうが、発想の転換を思い切ってやった、新しい流れをつくったと評価されたりする。
 企業には人や年度が変わると考え方が変わってしまう傾向があって、単発では優れた広告やキャンペーンはあるけれども、キャンペーンとキャンペーン、商売と商売とがうまくつながっていかない。だから、広告はいつも新鮮には見えるけれども、まったく違う会社のような作法になってしまっているものが多い。広告はエンターテインメントと思えばおもしろいかもしれないが、大変大きいお金が絡んでいるだけに、やはり違う考え方がいると思いますね。
 梶 
二十世紀が終わろうとしていますが、今世紀はいわば変化の激しい、物事が非常に短いサイクルで展開していく時代だったと思います。技術革新で、次から次へ新しいものが出てきた。けれど、そういう変化の時代がまさに今終わろうとしている。二十一世紀はたぶんもっと長いスパンで問題を考えていかなければならない時代です。だから、二十世紀的な広告、マーケティングの考え方や手法を、この際もういっぺんきちんと再点検しなければいけない。
 そういう意味で、テレビは変化の情報を与えてくれる優れて二十世紀的メディアであって、二十一世紀的メディアではないと僕は感じている。世界中のテレビコマーシャルがそうだということではなくて、特に日本の場合は十五秒の細切れになっていて、商品の名前しか伝えられないようになってしまっている。だから、タレントを中心にして何かおもしろい話を展開して見せたり、ちょっと音楽で脅かしたりという仕掛けでとにかく話題をつくっていく。
 テレビコマーシャルは話題をつくる機能は持っているけれど、次へつながっていかない。何連発かの花火みたいに次から次へと打ち上げていくだけで、結局それが受け手の心の中にしっかり累積していかないということになってしまうのです。特に十五秒スポットがそういうせっかちなコミュニケーションをつくり上げるということに大きな役割を果たしていると思います。
 先ほど三田村さんは、年度や人が変われば広告表現が変わると言いましたが、そのときに競合プレゼンテーションという広告会社選択のメカニズムが作用するから余計、この変化に拍車がかかるのです。競合に勝つためには、ほんとうに企業にとって何が必要なのかという視点よりも、どうやって目新しい、プレゼンテーション効果の高いものを提案するかにポイントを集約して表現を考えることになってしまうからです。
 ブランドは長期にわたって安定的な利益を企業に約束するものです。今までの日本の広告キャンペーンのつくり方に一番欠けていたものです。ブランドが今非常に問題になってきたのは正しいことだと思うし、その方向へ広告が変わっていくことは大歓迎なんです。いつの間にか、僕たちの広告は道を間違えたような気がしてしかたがないのです。

アカウンタビリティーが必要なほんとうの理由

 三田村 
多くの会社での以前の宣伝部は、自分たちで少なくとも広告の基本的な骨格のほとんどをつくって、うちにはカメラマンがいない、すぐれた広告デザイナーがいないのでこの部分はお願いしますというやり方だった。演出台本のすべてまで依頼するやり方はまずやらなかったと思います。少なくとも自分たちの思いを込めて自分たちで組み立てようとした。下手な言葉でもとりあえずつくってみようと、皆努力したと思います。
 梶 
それを僕たちの立場から言うと、クライアントの担当の人と一体になって考えようとした。だから、丸投げの仕事をわれわれが勝手にやるということは基本的にはなかったですね。
 三田村 
僕もそう思いますね。しかし最近は、企業の上層部が広告にどれぐらい重要度を置いているかにもよりますが、四六時中忙しいわけではなさそうだし、経費部門だから人は要らないんじゃないか、若い人でいいんじゃないかと人を少なくしていく。経験の浅い少ない人数で作業量が多くなってくるとどうしても外へ投げることになる。
 そういう意味で、広告会社の日本風AE制度は人手不足の宣伝部には極めてすばらしいシステムです。長年のつきあいで、一言二言で仕事が進む。ところがその集団から何が起こるかというと絶対思い切ったものが出てこないんですね。平均点ないしは平均点プラスアルファぐらいのものを常に出してくるんですよ。十案、十五案出してきても全部がある水準に収まっていて、突出して思い切った提案がない。 
 それから、一つの広告あるいはキャンペーンを決定するプロセスに多くの人が参加するようになった。事業部制に分かれていたりで、複数の財布からお金を出し合う。事業部と社長室、それから販社から、そういう三つの財布で一つの広告つくる場合、三人はほぼ対等に口を出す。
 それぞれに発言権がありますから、宣伝部長の立場はますます弱くなるし、そこで決定も出しにくい。クリエーターの人たちからみたら明らかに広告の素人と思えるような人たちが一人前の意見を言う。
 だから、議長である宣伝部長はみんなの意見を採り入れて平均的な中間の決裁をしていこうとしますから、初めからヒットしない角のないキャンペーンが組み立てられる。僕も宣伝部時代に「これは絶対ヒットしないぞ」と最初から分かっているキャンペーンを何回かやっています。もう悲しいですよ。しかし、そうしないとその場が収まらないのです。
 今の時代は宣伝部長や宣伝の責任者も企業の中で苦労をされていると思います。だから、広告会社やプロダクションの方は、このごろの企業の宣伝部は弱いとか担当者が頼りないという印象をきっと持っていると思います。
 梶 
広告の決定に関与する人が増えてくると、広告はアカウンタビリティー、説明する要素を非常に重要視していかなければならないことになりますね。「理屈じゃなくてここがおもしろいんだ」が通用しなくなってしまう。説明のために矛盾する要素を一つの広告の中にたくさん入れなければならなくなる。コミュニケーションはシンプルであればあるほどいいというのは、世の中どう変わっても変わらないし、一つの広告は一つのことしか言えないのは当たり前なんだけれど、それがどうしてもできなくなってしまう。
 広告をつくる側としても、専門性を主張するか、どこで妥協するかということになる。妥協したほうが楽だという誘惑に常に迫られる。妥協したら早く話がまとまるし、お金もちゃんといただけるけれど、それでいい結果が出なければいけない。やはり、いい結果を約束するためには妥協ができない。そのせめぎ合いみたいなものが常にあると思います。
 三田村 
それと、昔に比べて、広告の相談を受けてから締め切りまでの期間が最近はどんどん短くなっていませんか。
 梶 
ええ、短くなってますね。
 三田村 
内部のコミュニケーションのしわ寄せが、全部広告をつくるところに行っているんですね。宣伝部はこの社内の根回し、内部の調整やコミュニケーションで結構疲れていると思います。例えば社内の数名に対するプレゼンテーションのために、コマーシャルは、音もちゃんと取って映像もそこそこ動かす。そうしないとOKが出せない。そんなところにコストと時間をかける。ところが、その後のスケジュールは決まっているのでしわ寄せはクリエーティブに全部行ってしまうんですね。

タグラインのない日本の広告

 梶 
プレゼンテーションの場合、最近はテレビコマーシャルをメーンにして行われるのが普通になっていますね。時間が一時間あるとすれば、そのうちの四十分から四十五分はテレビの話をする。テレビは絵も動くしタレントが出てくるし音楽もあるしで、話は盛り上がる。テレビが決まったらその後でこれに対応する新聞広告はこうなります、ちょっとご覧にいれますというかたちで自動的に承認される。そういう状況が新聞広告を軽視する傾向につながってきたと思いますね。それだけではなくて、テレビのことは分かるが新聞のことはよく分からないというテレビ育ちの人が宣伝部の中に非常に増えてきています。
 三田村 
この間、広告主協会の「JAA広告論文」の表彰会に行ってきましたが、そこで企業の若い宣伝担当者の論文発表があったわけです。上位八編の論文に新聞に関するものが四編入っていたのが今年の話題ですが、宣伝部に配属されて最初に担当させられる仕事が新聞という企業が出てきているんですね。普通はテレビの派手なところに関心がいってしまったりしますが、新聞からもう一度始めさせようという企業が出てきているのはいいことだと思います。
 企業がテレビを重視する理由には、コストのウエートが非常に高いので、どうしてもこれで失敗してはまずい。テレビに対しては別の意味でちょっと真剣にならざるを得ない。それは経験上も、宣伝部の心情としてよく分かるんです。
 そうすると、今の時代の人たちのメディアミックスというのは、まずテレビを固めてそれをどうプリントメディアにアレンジするかになる。極端に言うとテレビの動かないのが新聞広告であったり、雑誌広告だったりしますから、メッセージが極めて少ない広告が多いんですね。テレビの十五秒では言えない商品の主張を解決していないプリントメディアの広告というのがすごく多い。だから、新聞も雑誌広告も別個のものだということにはなかなかならないですね。
 梶 
僕はテレビコマーシャルと新聞広告が同じものであっても構わないと思っています。同じトーンでつくられていても構わないと思うのだけれども、その基本が間違っていると感じています。日本のテレビコマーシャルが最近よく言われるのは、カンヌの広告祭でもそうですが、日本のコマーシャルでは何も伝わらないということです。
 欧米のテレビコマーシャルには「タグライン」が最後に必ず付いています。タグラインのタグというのはタグボートのタグです。お客の気持ちをそこへ引き寄せるための一言があるんですね。そのタグラインを非常に重要視する。
 むしろ、タグラインを印象的に浮かび上がらせるために、その前にドラマがあり、お話があるのです。そして、例えば最後に一言、「○○ピザはお客様をお待たせしません」というタグラインが最後に文字だけで静かに出てくる。そうするとそれを見ているお客の心の中に最後にその一行の言葉がしっかり入り込む。だからタグラインには音楽をかぶせない。ましてや声に出して読む必要もない。われわれが活字媒体に接するのと同じように、目で文字を読んで、メッセージが心の中に静かに落ち着いていくということでテレビコマーシャルのコミュニケーションが完結するのです。
 ところが、日本のコマーシャルにはそんなものはない。最後に商品名があるだけ。しかもそれが局の都合で次のコマーシャルとくっついてしまっている。だから余韻も何もない。一つのコマーシャルというのは、最後に静かに文字が出てきて一行言葉がきちんと打ち出される。コアコンピタンスというか、企業の競争力の中心になるメッセージが一言静かに浮かび上がって、それが視聴者の心の中に静かに落ち着いて、なるほどと思った後に、やや間があって、次のコマーシャルが始まるというのでなければ、ほんとうはいけないんですよ。本来コミュニケーションはそういうものなんだということを、日本のコマーシャルをつくっている人たちは忘れたのではないかという気がします。
 三田村 
企業にもまだそういう意識はないかもしれませんね。
 梶 
メーカーといえども今はサービス業です。自動車メーカーは自動車というハードを作っているようだけど、その四〇%から五〇%はサービスだと考えた方がいい。コンピューターだって決め手となるのはサービスです。それにもかかわらず、コンピューターや自動車というハードを売っているつもりで広告をつくっている人が非常に多いのはどういうことでしょうか。
 サービス込みで商品を売っているということになると、その商品やサービスに込められた企業の熱い思いが、重要になります。そういう熱いメッセージを広告で伝えるには、さっき言ったタグラインがないと伝わっていかないですね。

メディアの接触もモノの買い方も変わる時代

資生堂香水 三田村 
広告も、広告そのものの力というよりタレントの力に頼るものがかなりのウエートを占めていますね。十五秒のコマーシャルだとタレントが決まれば七割から八割まで終わり。これが果たしてクリエーティブといえるかどうか。広告会社も、タレントでその会社のアカウントを逆転できたりする。
 梶 
僕はタレント広告は安売りの広告と同じだと思っています。確かにお客を集めることはできる。高いギャラを払っていいタレントと契約すればコマーシャルの視聴率は上がる。けれど、それは安売りの広告をやってお客が集まるのと同じで、隣がもっと安い値段を付けたらみんなそっちへ行ってしまう。同様に、注目率もそっちへ行ってしまう。そういう根なし草なんだということをちゃんと理解してタレントを使わないといけないという気がしますけどね。
 三田村 
昔のプリントメディアではグラフィックデザイナーやイラストレーターの力は偉大だった。最近、「美と知のミーム、資生堂」という展覧会で山名文夫さんの作品を改めて見たんですが、「これには勝てん」と思うわけですよ。新聞広告の版下も展示されていて、手書きの文字を書いたり消したり、イラストをこっちに持ってきたり白で消したり、半五段の広告でも、いかに真剣に一生懸命つくっていたかもよくわかる。結局、資生堂のステータスとかイメージはあれでできた。だからイラストレーターが今見えなくなっているのは新聞広告が寂しい理由の一つじゃないかと思うんですね。 
 梶 
同じようなイラストレーターばっかりですよね。だからほんとに山名さんみたいに資生堂をしょって立つようなキャラクターというか、ユニークなイラストレーターがいないんでしょうね。
 三田村 
それと、山名さんの作品をみて改めて感じたのは、新聞広告にはやはりモノクロのよさというものがありますね。それで、最近の新聞広告をみて気付くのは、全一段や全二段に一生懸命つくっている広告を目にするようになったことです。コピーや写真も工夫されて、ちゃんと入っている。
新潟良品 以前勤めていたワコールという会社は女性用商品を扱っていたわけで、説得の主たる媒体は雑誌です。ところが、いつもネックになっていたのは社内の営業や得意先のバイヤーが女性雑誌を見ていないことです。広告の別の効用には、社内や流通に対するものも結構あるんです。
 テレビの強さはそこにある。テレビをやりますというと、それなら仕入れよう、メーンの棚に置けということになって、営業マンも余分な商談をしなくてよい。雑誌広告でこつこつ一生懸命やっていても、社内評価が極めて低いのは自分で買ってまで見ていない。雑誌広告の予算はテレビに積めということになる。メディア配分も妙なことになってくる。
 梶 
実際は午後八時台のテレビを若い人はほとんど見ていないのに、ゴールデンタイムに若者向けの広告があれだけ詰め込まれている。雑誌以上に彼らはテレビを見ていないにもかかわらずです。やはり、今までのメディアプランニングがちょっと間違っていたんじゃないかと思いますね。お客のいないところに向かって情報を流しているような無駄があったのではないか、消費者のメディアに対する接触状況が変わってきているのに、広告会社が考えるメディア戦略がそれについていっていないという気がします。
 三田村 
企業もモノは作ったけれど、だれが買ってくれるか読み切れなくなっている部分もありますね。
 梶 
あると思います。それと、売れたらそれで終わり、商品を買ってもらったら広告の役割は完結してマーケティングはゴールに到達したというのが今までの考え方です。しかし、そこからむしろ始まる。買ってくれたところから始まるというのがブランドマーケティングの考え方ではないかと僕は思うのですね。
 三田村 
商品を買ってくれる人たちのほとんどは、最近はリピーターだと思っています。極端にいえば、新規の顧客はもういない。そう考えると、おっしゃるようにエンドレスなモノの売り方が大事な要素になっていくと思いますね。
 梶 
アメリカのデータを見ると、新規顧客の開発にはリピーターのキープに比べ四倍から六倍の費用がかかるそうです。成熟した社会で新規顧客を狙うマーケティングは効率が悪い。むしろリピーターを放さないほうが、安定した効率のいいお金の使い方ができるというんですね。
 三田村 
リピーターに必要な情報と新規の人に知らせる情報とはまったく種類が違うと思いますね。高度な情報を上手に伝えないと今の人たちは現在の生活にほぼ満足しているわけですから、難しいでしょうね。
 梶 
若い人は新聞を読まないとよくいわれます。しかし、若い人でも新聞を読む人はやはり読んでいるわけです。だから、読まない人はもういいじゃないか。その代わり、読む人はちゃんと読んでいるという前提で広告を考えればいい。だれにも分かるような新聞広告をつくると今は駄目なんであって、もっとレベルの高い、もっと年齢も上の人たちにもきちんとメッセージを伝えるような新聞広告の表現を考えるべきではないのかなと思います。
 それには、やはりタグラインだと思うんですよ。つまり日本の広告はタグラインを今まで持ったことがない。だから、結局商品名や企業名をいたずらに連呼したり、いかに目立つように見せるかということだけに力を尽くしてきた。広告の中心になるべききちんとしたメッセージをきちんと伝えるという原点を忘れてきた。
 そのメッセージをいかにきちんと伝えるかということを、テレビはテレビなりに新聞は新聞なりに真剣に考えるべきではないのかと思います。広告というのは、企業がその商品に込めた思いを一点に絞ってきちんと伝えることをやらなかったら駄目なんですね。

広告は経営を理解していたか

 三田村 
きちんとしたメッセージを伝えるには、企業の上層部の意思が必要になりますね。企業がどういう夢や使命感を持っているか。僕は役割とか分相応という言い方が好きなんですけど、それを組織の中でちゃんと肉声で熱っぽく語っていれば冒頭で言った社内の伝達や伝承も要らない。それが担当者にまでしみ込んでいれば、ちゃんと動いていく。企業の上層部の人たちのスタンスとか意識は、大事なところへ来てるでしょうね。
 梶 
それが一番に問われているんでしょうね。企業経営というのはエンドレスに続いていく、だから広告もエンドレスで考えていかなければならない。
 今期の広告は今期の目的を達すると同時にそれは来期にきちんと受け渡されていくという前提がないと、広告は経営と一体になれない。そういう意味で、日本の広告会社や広告をつくっているわれわれも経営というものをちゃんと理解していなかったのかもしれない。経営は広告主のトップにいる人たちの問題であって、われわれは経営とは別の広告というワンクール、もしくは一年単位のビジネスをやっていると今まで考えていたんじゃないのかな。
 三田村 
日本の会社は、外の要因に振り回されることが多い。小さくてもいいから一つの店を構えて、だんだん店が発展していくような商売の仕方を組み立てるべきなのに“縁日の屋台”みたいなその日暮らしの意識の中でやってきたのではないかと最近思うんですね。
 梶 
縁日という比喩はよく分かりますね。
 三田村 
これまで天気と場所次第の縁日みたいにやってきて、気がついてみたら店先が食い散らかって、次のお客が入ってくるにはあまりにも失礼な状況になっていた。だから、看板としてのブランドの見直しが言われているわけですが、最近は「ブランドみたいな屁理屈はどうでもいい、売るんだ」と言っていた商売第一の営業の人たちまでがブランドに力を入れるべきだということを言っているのは昔と大きく違う点です。
 また、商品に差がなくなったというと聞こえはいいのですが、物まね、後追い商品を平気で出す無神経さに対する反省もベースにあると思います。ヒット商品が出たら似たような商品がワーッと出て、みんなで寄ってたかって商品の寿命を短く、市場を小さくする協力をしている。いろいろな企業から堂々とした商品が出なくなってしまっている。新聞広告に限らないですけど、広告のパワーやインパクトが弱くなっているとしたら、商品や会社そのものが弱っているのが一番の原因と思っているわけです。
 だから、新聞広告の真正面に堂々と据えられるような商品を企業は自信を持って出すということが最大の課題で、せっかちなクリエーティブでごまかしてはいけない。
 それで最近気付いたのは、商品を作っている人が見える広告がこのごろ増えてきたんです。それはブランドと関連していると思いますが、アサヒビールの西宮の三人の話、あれも何十年かぶりに復活した広告の手法だと思うんです。三共製薬の高峰譲吉や鈴木梅太郎を使った百周年の広告もそうでした。
 梶 
安直にコピーしてつくられた商品では満足してもらえない時代になってきましたね。どういう人がどんなふうにして作ったかという、オリジナリティーがきちんとあるものが受け入れられる方向に世の中が動いてきている気がします。同様に、広告をつくるときも時間とエネルギーを注入してつくらないと、ほんとうに人の気持ちをとらえるものはできないですね。

宣伝部とクリエーターのつきあい方

 三田村 
冒頭に広告づくりの妥協の話が出ましたけれど、僕らの仕事は広告会社の方や会社の上層部との葛藤の上に成り立っている。宣伝部はプレゼンテーションをもらったら終わりではなくて、もう一度、社内で自分たちがプレゼンテーションしなければいけないわけです。そのときにまた、むちゃくちゃ言われたりする。しかし、過去の経験でいくと摩擦や衝突のあった十分議論された広告はヒットするんですね。
 梶 
十人クリエーターがいたら、八人ぐらいの人たちは、失礼な言い方かもしれないけれど、あまり大したことができない人たちです。本当の意味でクリエーティブな表現をつくれる人は、十人のうち二人ぐらいしかいない。これは大手広告会社でも、われわれのところでもみんなそうです。今の時代は、そういう八人の人たちが幅を利かせている時代です。特に時間のない中で広告をとにかくまとめ上げて送り出さなければならないという局面になりますと、いつまでも表現にこだわっている二人は置いていかれる時代です。
 言い方を変えれば、現代はファミリーレストランの厨房みたいにして広告がつくられる時代です。必要なものは、みんなパウチに入っている。新発売のときのレシピはこうでと決まっていて、パウチを破いてお皿に盛りつけてそのまま電子レンジで加熱して、さっと手際よく並べてお客に出すというようなかたちの広告のつくり方が今の主流になっている。
 広告会社も今は効率をシビアに追求されます。競合があって、しかも制作部門はどちらかというとお荷物になってきているから、できるだけ無駄のない仕事をしなければならない。いきおい、ファミリーレストラン式の広告のつくり方をせざるを得なくなってくる。だから、その八人が制作部門の中でますます頭角を現してくる。それは、広告の未来のためにも情けない悲しいことだという気がしてならないんです。
 はじめに三田村さんがおっしゃったように、企業と広告会社のつきあいは長ければいいというものでもない。だけど、プレゼンテーションで今回はA社、次はB社というつきあい方が良くないのも、はっきりしている。だから、長い間継続してつきあいながら緊張感のある信頼関係が維持できると一番いい。
 一社と安定してつきあうためには、クライアントの宣伝部長はとにかく最初は「ノー」と言ったほうがいいと思う。信頼できるクリエーターを見つけてその人と安定的に仕事をすることは重要だけれど、緊張感を維持するためには、彼がつくってきた作品に対しては、何を持ってきても最初にまず「ノー」といったほうがいい。
 昔、そういう宣伝部長がいました。彼は気に入っていてもまずノーと言うのです。腹が立ちました。だけど、ノーと言われるとこちらもいい加減なものをつくれないという気持ちになるんですよ。その宣伝部長は、いつも僕たちの強い味方になってくれました。
 そういう緊張感のある信頼関係の中で、ある程度継続して仕事をするというのが一番結果としてはいいのではないかと思います。
 三田村 
広告会社はたくさんありますが、サイズや呼吸が合っていることも大事なことだと思います。広告主と広告会社の気合というサイズが合わないと、うまくいきません。会社のサイズが合わないなら担当者のサイズを合わせてもらうことです。広告会社の日常の担当は宣伝部の窓口の人間とできるだけサイズが近いほうがいい。
 それから日常のキャッチボールも大切です。特に、クリエーティブの人と宣伝部は頻繁な接触がない。オリエンテーションかプレゼンテーションの時に名刺交換するケースも多く、ほんとうは、クリエーティブの人たちと日常どれぐらいミュニケーションを図れるかもすごく大事なことです。
 仕事が大きくても小さくても、オリエンテーションをしてプレゼンテーションは何日と決まったらそれまで会わないのではなくて、競合で質問しにくいかもわからないし、もう一度話し合おうよというわけです。僕たちもそういう人たちとのチームワークを育てていきたいという気持ちがある。また、プレゼンテーションの日までどんなものが上がってくるか心配しながら待っているのではなくて、これだけ話し込んでこれだけ言ったんだからだいたいこういう感じのものが上がってくるという安心感も生まれる。そういう積み重ねで広告会社との関係はでき上がっていくと思います。

(→経済の一員としての表現者へ
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