特集 1998.9/vol.6

変わる流通業と消費者
消費者意識のいまー使い捨て消費から生産的消費へー くれいん館・人間行動研究所 安部雍子
早稲田大学卒業。1963年(株)マーケティング・コンビナートに入社。82年(株)くれいん館・人間行動研究所を設立、代表取締役に。日本マーケター女性会議初代議長、通産省中小企業近代化審議委員などを努める。著書に「オン・ザ・ウェイの時代」など。

 
一九九八年、夏休みの消費

街01 一九九八年、夏期休暇、ある家族の消費の実態。それは消費者意識の変化をかなり正確に物語る。
 ――この夏、Oさん一家は富士山ろくにある山荘にでかけた。そろそろ定年近くなったOさん夫婦、一年前に結婚して別所帯を構える娘夫婦、八十八歳になるO婦人の母親、姉、それにO夫人の妹夫婦、愛猫二匹(アビシニアンのアビちゃんと、アメリカンショートヘアのハナちゃん)の総勢八人と二匹、加えて水やりの必要な植木鉢十二鉢、という大所帯の民族大移動である。
 移動の足は三台のクルマ、おんぼろマセラッティ、七人乗りのオデッセイ、中古のHONDAセダン。食料は各自自宅の冷蔵庫からあらかたをクルマに積み込む。服装は全員シャツにジーンズの軽装で、ボストン・バッグの中身は、多少の着替えと作業着、洗面道具である。
 およそ一週間の山荘生活は、まず建物の補修作業から始まった。ちょうど十年目にあたる今年は、そろそろあちこちが傷みはじめる時期でもある。庭の草花の手入れに始まり、茂りきった木々の枝を払う。ベランダのスノコの傷んだ部分を取り替え、汚れを落とし、防腐剤を塗り、ペンキを塗る。
 朝六時からせっせと働くこうした作業が丸二日間、全員汗まみれの、しかし充実した日々が楽しい。夜は最近できた地ビールのレストランでご苦労様の乾杯! クルマで十五分の温泉で汗を流し、帰ってからは、またまたビールで乾杯!だ。
 三日目からはそれぞれの計画にしたがって、山の生活を楽しむ。ゴルフ好きは混みあって値段の高いゴルフ場を避け、設備はまったく大したことのない、しかし安いショートコースのゴルフ場で下手は下手なりのファミリー・ゴルフを。山歩き好きはおにぎり背負って日帰り登山。本好きは日陰にイスを引っ張り出して読書ざんまい。そのそばで山野草を植えるものも。
 のんびり寝転がり、せっせと汗を流し、残りの数日間を思い思いに過ごす。洗濯、後片付け、植木の手入れ……涼しい高原の空気を満喫して帰り支度に入る。混み合う高速道路を予想して、帰途は早めにというのがO家の鉄則である。

O家の夏休み支出の内訳

 さて、この一週間の支出総額はというと、山荘隣人への手土産――三千円、補修のための出費――電動鋸(のこぎり)、木材を含めて約二万円、外食が八人で二万五千円、ゴルフが六人で約四万五千円。追加の食料・酒代二万円、クルマ三台で往復の高速道路代一万五千円、締めて十二万八千円という金額である。
 一人あたり約一万六千円、ガソリン代、水道、光熱費を加えてざっと二万円ぐらいになろうか。これがOさん一家の、和気あいあい、心豊かな夏休みの出費である。
 この支出をどう見るか?
 もちろん、この背景には山荘そのものの支払い、維持管理費、税金などがあり、クルマ、ゴルフ道具、携帯電話などを含めた事前投資がある。しかし、この夏休み支出に限っていえば、その六五%が外食、ゴルフ、高速代などのサービス支出となっている。具体的なモノへの支出が意外に少ないこと、そのモノとは、食料費以外はDIY関連にしぼられること、また全体の費用も、決して多くはないことがわかる。

もう一つの消費者意識

街02 いま、消費が不振であるという。
 O家のケースにみられるように、それは事前投資を計算に入れなければまさにその通りであるといえよう。しかも外注するとすれば、恐らくかなり費用のかさむであろう家の補修や庭木の手入れを、ホビーとして大いに楽しんで暮らしたわけであるから、それは結構生産性の高い夏休みであったともいえる。
 ここにみられるのは、人々が満ち足りる行動・行為が、単なる「消費」だけではなく、その消費の結果が別の具体的な生産行動に結びつき、そのことが、日ごろのサラリーマン生活の中で一服の清涼剤となり、あるいは日ごろばらばらに暮らすファミリーのコミュニケーションを確かめる機会にもなって、元気を取り戻す力となっていく――そういう形になっていることである。
 消費とはこれまで、何かを購入し、購入したことに満足し、使い捨てていくことであった。私たちは昭和三十年代以降に人々が家電製品を次々と買い足し買い替えていったような、あるいは何かと常にターゲットにされてきた若い女性たちが、ブランドもののバッグや靴に群がり買いあさったような、そういう現象を「消費」と呼んできたのである。
 消費の方向は「モノからサービスへ」、とはこれまでにも言われてきたことであるが、それはいま「人々にとって本当の豊かさとは何か?」について考え直してみることでもあろう。お金はなければ困るが、かといってどんなにお金があっても忙しく仕事に追われている状態ではとても豊かとはいえない。いま最高の豊かさとは、「ゆったりとした静かな時間が流れていること」――時代はそうした方向に向かっているように思われる。
 金額の多寡による満足というものがまったくなくなったわけではないが、厳しい経済情勢の中で、それぞれの生活状態に見合った、もうひとつ別の消費――「生産的消費」を楽しむ姿勢が身についてきたということなのである。

魅力が薄れてきた小売業

 手元に本年六月二十五日付の日経流通新聞「第三十一回 日本の小売業調査」がある。それによると小売業上位五百社の九七年度売上高は、四年ぶりゼロ成長、経常利益はコンビニエンスストアを除く全業態でマイナス16.8%、なかでも百貨店は30.1%、生協34.1%と大幅に落ち込み、スーパーマーケット、専門店も二ケタ減益であるという。これは、バブル崩壊で価格破壊が広がった九三年に次ぐ低い伸びであると報じている。
 その理由を、同紙は、消費税率の引き上げなど九兆円に及ぶ国民負担増、将来への生活不安からくる消費マインドの冷え込みとしているが、本当にそれだけなのだろうか、と私はいささか不審な思いを持つ。
 なぜか? それはこうした時期にあっても前年比二ケタの伸びを示している百貨店が現実に存在しているからであり、ある特別なジャンルに抜きん出て見事な品ぞろえを行い、この時期とはいえ場所を選んで店舗展開し、成功しているスーパーマーケットもあるからだ。また、決して価格の安くないコンビニエンスストアが、店舗数の増加を背景にしているとはいえ九%の伸びを示しているという事実もある。
 主婦たちの自衛手段としてスタートした生協、伝統と文化、そして包装紙の威力で市場を形成してきた百貨店、大量陳列・大量販売、対面からセルフへ無駄を廃してコストダウンを図ったGMSやスーパーマーケット、このそれぞれにはそれぞれの存在理由があったはずである。
 現代に生きる人間は、自分でモノを生産する手段をもたない。「買う」こと抜きでは生きることができない環境に置かれてしまっているにもかかわらず、なぜ人々はそれらの小売業態に魅力を感じなくなってしまったのか?

生活ニーズとの「ずれ」

街03 その理由は簡単である。それらの店に人々が欲しいと思うものがないからである。前述した二ケタの伸びの百貨店は、顧客の動向、顧客の顔、顧客の生活をしっかりと見据える仕組みをきちんと持っているし、自分の得意技をしっかりつかみ、ふさわしい立地をきちんと選んで店舗展開しているスーパーマーケットは、自分の客の好みに精通している。
 コンビニエンスストアは時間の枠、距離の枠――つまり現代の若者の暮らしの有り様にピタリと照準を合わせているではないか。
 経済的理由もさることながら、自己実現意識の高まりで、あえて専業主婦としてのぬくぬくとした場所を捨て、仕事をはじめる多くの主婦にとって、グループによる作業を求められる生協は、わずらわしい、気の重い存在である。
 高齢化社会といわれながら、その対象を最も縁の遠い存在である二十歳代から三十歳代のキャリアOLに置き、見事に敗退した百貨店を、私は知っている。また最も時間のたっぷりある高齢夫人たちに対して、ゆったりと流れる時間を売ることをじっくり考えている百貨店を不幸にして私は知らない。
 安易なコストダウンを志向して、その使われ方への目配りを欠いた商品の大量陳列で、すっかり魅力を失ってしまったGMS。
 それはメーカーについても同様だ。繊維製品ひとつを取り上げても、日本の気候風土にふさわしい繊維の開発は一体どうなっているのだろうか。あるいは店頭に山積みになっている立派なバスタオルが、高齢者をくるんでおふろにいれようとした時、縦糸と横糸の強度が異なるために、ビリッと裂けてしまうなどということになぜ気づかないのだろうか。繊維産業のこれだけ長い見事な歴史と蓄積を、どうして現代の人々の生活に生かそうとしないのかと、しみじみ残念に思ってしまうのである。

届かない「売り」の現場の声

街04 確かに先行き不透明、不安がいっぱいの時代ではある。しかし、人はそれでも生きていかねばならない。
 小売業は、人々と、モノやサービスの接点、そしてそれは同時に時代との接点でもある。流通産業についていつも不思議に思うのは、最も大事な「売り」の現場を預かる接点(人)がおろそかにされていることである。
 現場からはるかに離れた本部にいる人間が高給をはみ、偉いなどと思い込んでいるのはなぜか? だから優秀な販売のキャリアがいつまでたっても育たない。客の動向に関する一番大事な生(ナマ)情報が本部に伝わらない。
 販売のキャリアをもつ女性たちが年功型賃金の犠牲になって、次々とリストラの網にかかり退職を余儀なくされている。これは本末転倒である。固定給プラス売り上げパーセンテージという技術職としての位置付けを、どうして考えないのであろうか。
 客自体の生活志向が変わり、当然求めるモノやサービスが激変しているこの時代こそ、「接点」の果たす役割は大きい。機械によるシステム化や合理化が悪いといっているわけではない。人の変化の情報がベースにあってこそ、そういうものは意味を持つのだということなのである。
 たとえば少子高齢化という時代に、一体人々は何を求めようとしているのだろうか。そう考えていくことによって「盆の帰省」と「父の日」「母の日」の新しい関連・意味が浮かんでくる。年を重ねるということが、体にどのような変化をもたらすかを考えることによって、環境を含めたモノやサービスの中身を変えていくことができる。

変化の途上にある消費生活

 「消費」は、これまでのただ使い捨てていくためのものではなく、生産的消費(これを私は消費財型消費に対して人生材型消費と呼びたい)に形を変えようとしている。それは戦後の消費生活がとりあえず終焉(しゅうえん)したなかから生まれた、もうひとつの消費の姿である。
 ことばを変えていうなら、それは文化的消費であり、そこでは物流にかわって“文流”すなわち文化の流通の仕組みが必要になってくる。いま最も欠けているのは、そこであるように思われる。文化とは生活そのもの。時代も、人も、そして生活も、いま、変化の途上にあるのだ。


(→流通業の革新へ
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