特集 2002.10/vol.5-No.7

活字文化・出版文化を考える
大澤真幸氏 状況への発言 西垣通氏
 
行動原理を放棄する勇気

 西垣 まさにそこはポイントです。マリアの受難は小説のなかの中核的な部分ですから。大澤さんは『文明の内なる衝突』の中で、9.11テロの後でわれわれが取るべき態度は、タリバンを含めたアフガニスタンへの大規模な援助だったとおっしゃっていますね。これは、パッションとも深く通底していると思うのです。とはいえ、もしアメリカに対して、援助しろという提案をしたら、おそらく彼らは納得しないのではありませんか。
 彼らは言うでしょう。われわれはアフガンを攻撃するのではない、敵はアフガンの中のアル・カーイダやタリバンという一部の圧制者だ、やつらは人々を苦しめている。自分たちはそれに対する解放軍なんだ、と。もし、アフガンに贈与なんかしたら、それは全部悪いやつらが取ってしまって、悪魔が私腹を肥やすだけだ、と。

大澤真幸氏
 大澤 確かに普通はそういう論理になります。逆に、アメリカに批判的な人たちも、その点は同じ論理になるのです。アメリカの空爆に反対する人たちは、「罪のない民間人が殺されるのはけしからん」と言っていますが、この考え方を逆に言うと、罪のあるやつなら空爆してもいいということです。しかし、だれが敵か識別することがむずかしい状況では、罪のない人だけを純粋に分けて救うことはできません。だから、罪のない人を救いたかったら、罪のある人を救わなければいけないということがまずあります。
 それから、9.11テロは無差別殺人で、殺人の中では最悪のケースだ。それに対して誤爆で民間人を殺すのは、過失致死だから仕方がないという考え方をする人もいます。そういう人に対抗するためにも、ぼくは民間人でも絶対的に救う方法を取りたい。そのために、明白に罪のある人も救うという選択肢を逆に取りたいわけです。
 もう一つは、グローバル化した世界は「あっち側」にだけ悪いやつがいるのではないということです。悪いやつは自分たち共同体の中に深く浸透している。つまり、問題自体が自分たちに内在しているのです。だから、悪いやつを徹底的にやっつけようとすると、いつの間にか自分たちに対する攻撃になってしまう。自由と民主主義のために戦っているのに、人権を無視したような政策がセキュリティーの名のもとに容認される事態になっていくわけです。
 そうすると、取るべき方法としては、自分たちも変わるし、相手も変わる作戦でいくしかない。自分たちの正義の感覚から見たら到底容認できないようなことを自分たちからやらなければいけないということです。
 今回のテロを考えた時に、問題が解けなくなるのは、前提条件をフィックスさせておいて、解を求めるからです。そうではなく、前提条件そのものが変わると考えればいい。自分たちの一番基本的な行動原理をいざとなったら放棄する勇気が必要だということです。

 西垣 よく分かります。小説を書き終わってから、日本へのキリスト教布教のことが気になって、先日、遠藤周作の『沈黙』を読み返してみました。『沈黙』は、日本に布教に来た宣教師を主人公にした隠れキリシタンの話です。主人公は信用していた日本人に裏切られて役人につかまる。そして、牢屋につながれて、棄教せよとむりやり踏み絵の場に引き出される。主人公はもちろん、裏切り者をゆるせない。ところがそこでユダの話を思い出すんですね。ユダに対してキリストは「去れ、行きて汝のなすことをなせ」と言った。それはユダの裏切りをキリストが見抜いて、ユダを突き放した冷たい言葉だと一般には解釈されています。しかし、本当にそうなのだろうかと、幾度も自問するわけです。主人公は結局、煩悶のすえに踏み絵を踏むのですが、そのとき、踏み絵のなかのキリストの顔が、主人公の苦しみを理解して、「踏むがいい」と語りかけてくる。こうして、主人公のユダに対する疑問はとける。キリストはユダも赦していたのだ、なぜならユダはだれよりも苦しんだのだから、というわけです。そして、自分も裏切り者を赦そうと決意する。これは遠藤さんのユダにたいする解釈と言えますけどね。

 大澤 おもしろいですね。ユダという人物がなぜ新約聖書の中に登場するのか。実は、ユダはキリスト以上のキリストだとぼくは考えています。ある意味では、ユダはキリストのキリスト性を完成するキリストの分身ですらある。そういう解釈もできると思っています。
 キリストのポイントはどこにあるかというと、神が十字架にかけられ、けちな泥棒と一緒に惨めに殺されてしまうところです。小説のマリアも、最後には醜く、老婆となってリューマチになってしまう。しかし、それこそが神々しいわけです。醜く惨めなものに神を見るところが、ユダヤ教と違ったキリスト教の新しい展開です。ただ、キリストは十字架に磔になったことによって英雄化される。ところが、キリストの随伴者の中で最もひどい受難を受けるのは、ユダです。ユダという分身は実はキリストに反しているけれども、キリスト的精神を最も徹底させているとぼくは思っています。ユダには、キリストと違って死後の栄光化すらなく、最後まで人間的な卑小さにまみれなくてはならないからです。

新たな普遍性の追究へ

 西垣 なるほど、鋭いですね。ただ、その価値観をどう現代に通じさせるかが問題でしょう。『沈黙』が書かれたのは1966年ですが、そのころは、まだ欧米文明が一つのオーラを持っていた。日本はまだ発展途上で、われわれはどう生きるべきかという問いを常に投げかけられていました。ごく普通の人たちが一生懸命、まじめな小説を読んでいた時代だったわけです。
 一神教的な普遍主義を奉じるアメリカを批判することは容易ですが、一神教的な部分がグローバライゼーションの本質である以上、多神教の昔には戻れない。そうなると、ここでもう一段階、普遍的なものを深めなくてはいけない。
 マクロに見ると、メディアは今、印刷文明からテレビ、インターネットへと重心を移しつつあります。インターネット時代に、いかにしてパッションや赦しといった思想を具現化するか、ですね。今の時代に、『沈黙』のロジックが意味を持ち得るかどうか。
 ご存じのように現実には、ポストモダン的な雰囲気が、一種のミーイズム的でローカルな快楽追求を無条件に是認する、つまり普遍的基準の不在のアリバイになっています。話し言葉みたいなコミュニケーションが平等感をもたらす一方で、巨大な搾取が行われている。ITがそういうものの道具になっています。

 大澤 インターネットの世界を見ると、情報ネットワークとしてはグローバル化しているのに、それを使っているユーザーの世界は、逆にローカルになっている。ある意味、印刷やテレビしかなかったころの人の方がユニバーサルなパースペクティブを持っている。確かに、インターネットは普遍性というものにつながりにくい道具です。今回の9.11テロは、やはりそれを超えて、普遍性を考えなくてはいけないという教訓だったと思うのです。
 ただ、確かに若い世代には「オタク」と呼ばれる人たちがたくさんいて、本当に自分たちの世界しかないのですが、そこに一つの普遍的なパースペクティブに対する衝動を感じることはあります。東浩紀君は、ぼくより10歳くらい若いのですが、彼が去年の終わりに『動物化するポストモダン』という本を出しています。オタク的な文化に対する分析をしているのですが、その中で、オタクたちがデータベースを構築しようという意志に憑かれていることを指摘している。データベースというのは、かれらにとっては、ひとつの宇宙(ユニバース)です。そういうことを考えると、彼らの細部の情報へと入っていくベクトルを外に向けていけば、それは新しい普遍性(ユニバーサリティー)への道になり得るはずだと思っているのですが。

 西垣 情報というと、だれもITのことを考えます。オタクのつくるデータベースもあくまで基本はITの中での話で、これは昔からある話とそれほど違う話ではないでしょう。
 むしろ情報と生命の関係に注目せよ、というのが私の主張です。生物が地上に生まれて初めて、情報が生まれたわけです。情報は、本来、生きるための一種の仕組みとも言えますが、人間同士のあいだでは、だんだん社会的な色彩を得てくる。さらにそこにテクノロジーが入って来てコンピューターで高速処理できるようになった。けれども、本来、情報とは、生物的な存在なのです。
 ところが、これまでのわれわれは、動物というより、人間からまず出発していた。つまり、キリスト教的な考え方にもとづいて人間と他の動物とを峻別していたのです。
 しかし、最近の動物行動学や分子生物学は、動物と人との連続性を実証しつつあります。情報は、生きとし生けるものすべてにかかわるものであり、生命情報というものから物事を考えていくべきだということです。
西垣通氏、大澤真幸氏  われわれは人工的な環境に閉じこめられていて、生きるダイナミックス、つまり自然のダイナミックスを忘れています。そこを逆転するのが、情報学の使命だと思っています。バイオ・エンジニアリングやバイオ・インフォマティックスといったものと、生きとし生けるものすべてに対するやさしさみたいなものをどう理念として結びつけていくか。それが、新たな普遍性の問題なのかもしれません。


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